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繙 蟠 録 2010年5月前半

2010/05/08 歴史の止揚とは二重性を噛みしめ続けることである

kscykscyさんの再度の批判を読んで繰り返し考えたことは,歴史はさまざまな喜怒哀楽を抱く個々人や集団の葛藤や闘争を包み込んでジグザグに進むということです。

 1948-49年の在日朝鮮人の民族教育に対するアメリカ占領軍と日本政府による非道な弾圧とこれに対する闘い,阪神教育闘争を今に生きる私たちがどう捉え,そこから何を学ぶのか。

 1954年生まれの私は阪神教育闘争の当時はまだ生まれていません。したがって私が阪神教育闘争を「知る」のは書物に記された文章を通じて,つまり間接経験によってです。間接経験だから直接経験より劣るとは一概に言えません。狭い直接経験に固執して全局が捉えられないこともあるからです。私もまた,(kscykscyさんよりはおそらく少ないでしょうが)関係文献を読み,小中学生のころ暮らしていたのが尼崎であったこともあり,関係者からも話を伺って「知り」始めたわけです。

 他方でまた,阪神教育闘争のその時その場にいなかった私はそれゆえ当事者として歴史に直接かかわることはできませんでした。その時その場で精一杯闘った人たちの実践はその時その場で在日朝鮮人運動と日本社会運動が実現した最高で最善のものであり,私は敬意を感じています。後世からみれば不充分はあったでしょうが,それは後知恵というものです。

 過去の歴史的な事件から学ぶということは,肯定的部分と否定的部分を区分けするということではないと思います。第一,そんなことはできっこない。すべての事件,事象が同時に肯定的かつ否定的なものとして,二重性において存在しているということを噛みしめるということです。闘争や事件には「終わり」があります。ほとんどの場合,それは苦い「敗北」として。しかし,「終わり」を噛みしめつつなお生きようとする個々人にとっては「終わり」などなく,持続あるのみです。

 kscykscyさんと私とは,私の度重なる日付等のミス(ご指摘ありがとうございます)にもかかわらず,狭い意味での事実の捉え方は違っていないと思います。kscykscyさんも

しかし、この学校閉鎖令撤回はほどなく再び「撤回」される。〔中略〕在日本朝鮮人教育対策委員会と森戸文部大臣は再び1948年5月3日に会見し、同日午後8時に朝鮮人教育についての「覚書」に仮調印した(正式調印は5月 5日、以下「5.5覚書」と略す)。よって、民族教育擁護闘争が獲得したこの時点での成果は、4.24の学校閉鎖令撤回ではなく、「5.5覚書」なのである。

と書いています。

 一度は撤回させたがその後「妥協」せざるを得なかったというのが事実です。kscykscyさんの批判にこたえてなお「5.5覚書」を記述せずに,翌年の尼崎における苦闘を詳述した私の真意はどこにあったのか。私が一度は撤回させた「4・24」の伝統を復興させよう,と言うのに対して,kscykscyさんは

ありうべき日本人への呼びかけは、「4.24のときのように闘おう」ではなく、「4.24を繰返すまい」のはずである。

と主張します。ここに,二つの歴史観の,単純で普遍な,基本的で根本的な違いがあります。

 kscykscyさんは,一度撤回させても結局は後退した,つまり,結果がアウトなら途中経過もアウトと強調します(そういう言葉は使っていませんが,そういうことになります)。私は,ここがどうしても納得できません。1968年9月30日,日大全共闘一万人は古田重二良会頭との翌朝に及ぶ大衆団交で要求を呑ませ,会頭以下出席理事は,学生自治弾圧への自己批判,使途不明金の全容公開,大衆団交再開の確約書に署名しました。翌10月1日,佐藤栄作首相は「政治問題としての対処」を表明,3日,古田重二良会頭=日大当局は緊急理事会を開き,大衆団交は数の威力による強要だとして確約書を破棄しました。kscykscyさんの手にかかればこれも,この時点での成果は9・30確約書でなく10・3破棄であり,ありうべき呼びかけは「9・30のように闘おう」ではなく「9・30を繰返すまい」ということになるのでしょうか。

 労働運動も学生運動も敗北の歴史です。それでも闘う。闘争が,本質において現体制に対する否定であるかぎりは闘っては「敗北」するという行為が,現象だけみれば無限の徒労のように反復され,この反復によって,少しずつ歴史が動いていきます(これもkscykscyさんの見方によれば「願望」なのでしょうか)。

 日米安保条約は結局は自然延長されたと否定するのではなく,60年6・15のように闘おう,と呼びかけること。日大の大衆団交は結局は破棄されたと否定するのではなく,68年9・30大衆団交のように闘おう,と呼びかけること。樺美智子の死,そして中村克己の死について想いをめぐらせるとき,私はどうしても「結果がアウトなら途中経過もアウト」という歴史観に与する気持ちになれません。阪神教育闘争に話を戻せば,「4.24を繰返すまい」ではやはりなく,再び三たび「4.24のときのように闘おう」でなくては,金太一の犠牲を生かして闘い続けることはできないと思います。ここに私の言いたいこと,つまりkscykscyさんと私との歴史哲学の違いがあります。(M)

2010/05/05 阪神教育闘争再論 kscykscyさんの批判にこたえて

kscykscyさんがブログ「日朝国交「正常化」と植民地支配責任」の5月3日付「1948年の民族教育弾圧について――前田年昭氏への疑問」で,阪神教育闘争についての私の記述(繙蟠録3月29日付)を取り上げてくださっている。

 第一に、前田氏は「敗戦直後の1948年,アメリカ占領軍と吉田政府による朝鮮学校閉鎖令」と記しているが、朝鮮学校に対する閉鎖令の前提となった文部省通達(1948年1月)が出た時の内閣は、片山内閣(1947年5月-48年3月)であり、また、阪神教育闘争(1948年4月)の際も芦田内閣(48年 3月-10月)であって「吉田政府」ではない。学校閉鎖令も48年3月から4月にかけて都道府県レベルで出ており、ちょうど片山・芦田がバトンタッチする時期にあたる。

これはまったくその通り,私の事実誤認である。ここに記して「アメリカ占領軍と日本政府」と訂正し,指摘をくださったkscykscyさんへの謝意と私のお詫びを表明しておきたい。さらにkscykscyさんは批判を次のように続けている。

 これは揚げ足をとるために書いているわけではない。民族教育弾圧が吉田内閣ではなく、片山・芦田内閣期に始まったことは、今般の高校「無償化」からの排除へとつながる戦後日本の在日朝鮮人に対する「政策」をいかに把握するかと関わって極めて重要な意味をもっている。〔中略〕
 片山内閣は連立とはいえ一応社会党(右派)首班の政権である。〔中略〕だが上に記したように、この片山・芦田内閣の時期は、同時に民族教育への弾圧が公然と開始した時期でもある。政治史的に見れば、片山・芦田から第二次・第三次吉田内閣への移行は一つの「転換」であるが、在日朝鮮人に関していえば、吉田は片山・芦田政権の政策を「転換」させることなく、むしろその土台の上に立って朝連解散と第二次学校閉鎖という、より破壊的な朝鮮人弾圧を遂行することができた。こと在日朝鮮人への対応についていえば、日本国憲法施行前後に明確な断絶は存在しないのである。

こう指摘して,kscykscyさんは「阪神教育闘争の只中である1948年4月27日、衆議院本会議において社会党(右派)の森戸辰男文部大臣は次のように発言」として国会会議録を引いて(当該ブログで全文を参照ください),次のように書いている。

 ここで森戸が述べていることは、「大日本帝国」体制期の朝鮮民族運動弾圧の単純な延長ではない。森戸は「軍國主義的な形を脱した刷新日本の教育制度に服していただきたい」という表現でもって、在日朝鮮人の自主的な民族教育を否定しているのである。〔中略〕
 教育弾圧が「吉田政府」のもとで行なわれたという理解では、以上みたような「平和主義と民主主義」と民族教育弾圧の並存という戦後日本の朝鮮人弾圧のあり方を理解することができない。同様の点から私は、「日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い,撤回させた歴史」という表現にも承服できない。そもそも、1948年の第一次教育弾圧への反対闘争は学校閉鎖令を「撤回」させるまでには至らなかった。またその際日本人による充分な民族教育擁護闘争があったとも思えない。むしろ充分な日本人の闘いが無かったから、不充分な妥協案を朝鮮人団体側は呑まざるを得なかったのではなかったか。「日本人と在日朝鮮人は肩を組んで阪神教育闘争を闘い,撤回させた歴史」という表現は、一種の願望に過ぎないのではないだろうか。

 1948年の阪神教育闘争は,兵庫県で4月 28 24日〔5/8訂正〕に知事が「閉鎖令を撤回」,大阪府では6月4日,大阪朝鮮人教育問題共同闘争委員会と知事が覚書を交換した。しかし,中国革命が進み,北朝鮮では社会主義体制づくりが着々と進んでいるという東アジア情勢の変化にアメリカはいらだち,日本政府は翌49年9月に朝連と民青を解散させ,財産を没収,あわせて朝連系学校の閉鎖を強硬に命令してきた。「阪神教育闘争を闘い,撤回させた歴史」故に,執拗に閉鎖命令を出してきたのである。

 兵庫県当局は49年10月19日,尼崎初等学校に朝連系教員の追放などを要求する改組命令をだした。朝連の解散にひきつづくこの改組命令の意味を敏感に感じとった父兄たちは学校にふとんを持ち込んで強制接収にそなえ,連日,学務課長や市長と交渉した。六島誠之助市長は朝鮮人学校を強制閉鎖する方針に賛成ではなく,11月には県に要望したが,あくまで閉鎖方針を貫こうという堀茂県教育長と平行線をたどった。12月4日,六島市長は県の意向とは別に尼崎市として独自の道を行くことを決め,朴成根ら5人の代表と「市長の責任において仮分校を守部の元朝鮮人学校を使用して開設すること,仮分校には朝鮮人代表の推薦にもとづく朝鮮人教員を採用すること」を約束した。そして12月24日,朝連武庫初等学校は尼崎市立武庫小学校守部分校として引き継がれ,翌50年4月には同様に市立小学校の分校として四つの朝鮮学校が発足した。朝鮮語や朝鮮歴史の教育は続けられることになった。この尼崎の処置は全国で最初のケースといわれ,その後,兵庫県下で伊丹,高砂,明石がこれにならった他,愛知,神奈川でも採用された。

 朝鮮戦争の開戦(50年6月)を前に,これは在日朝鮮人の民族教育を続けるためのギリギリの線であり,それは「日本人と在日朝鮮人の肩を組んだ闘い」が実現させたものだった。尼崎市行政課編『尼崎市警察史』の年表には,阪神教育闘争の48年「4月27日」の項にさりげなく「MP40名来署,責任者逮捕に協力し朝鮮人21,日本人22,計43名を検挙」と書かれているが,私は,この短い1行に北朝鮮バッシングの吹き荒れる現在の日本社会とは明らかに違った日朝関係史の希望を見出す。kscykscyさんは「願望に過ぎないのではないだろうか」と指摘するが,私は研究のための研究ではなくあくまで日本の反権力運動の再生のためという目的(これを“願望”というならそのとおり!)のために,過去の歴史の中から希望を探し出そうとしてきたし,これからもそうするつもりである。(M)

2010/05/01 出版大崩壊を十数年前の写植崩壊から考える(1)

現下の“出版大崩壊”は,十数年前の“写植業界の崩壊と激変”と酷似している,と思う。私もそうだが人は激変の只中では置かれた状況を相対化し難い。

 閑話休題。1996-97年頃,各地の写植組合はDTP組合へ改称した(東京写植組合第7支部に属す私も恥ずかしながら名称検討討議に参加していた)。当時既に手動写植は電算写植に主役を譲っていた(電算写植は技術としては今のDTPに地続きだ)。ところがそれも業界の激変のなかで仕事が激変,食えなくなるのではという不安は日々のやり繰りの中で爆発しそうだった。

 そこに,時流に従いDTP組合への改称で生き残りが図れるのではという提案が現れた。歌は世につれともいう。確かにそう。が,世は歌につれと言えるのかどうか。現実から遊離した名前は現実に合わせればよいだろう。しかし問題は違った。「自らの現実」が「時流の現実」から遊離していっていたのであって,変えるべきは現実から遊離した名称ではなく「自らの現実」だったのだ。

 以後の変化は目まぐるしく,写植は間もなく歴史の舞台から消えた(写植の時代は活版と比較出来ぬほど短く,果たして記録も残るのか?)。さらに DTPに切り替えた業者もひと息つく間もなく組版専業で食えなくなるのに10年とかからなかった。 http://bit.ly/2TK8gH

 写植業は地場産業であり,広告会社や印刷会社などと密集した地域を形作っていた。

 是枝裕和監督,ペ・ドゥナ主演『空気人形』アスミック・エース,2009の景色は元写植業者として感慨深い。ロケ地に選ばれた中央区湊2丁目は写植業密集地だった。近くに広告ガリバーである電通を控え,中小の印刷会社も多く,印刷機の音,インキの匂いが満ちていた。印刷版下の制作と修正のため近くで素早い対応が求められる写植業者は必然的に近在に密集することになったのである。

是枝監督は「地上げが途中で終わってしまったのか、あそこだけぽっかり残ってしまった空間」で「イメージにとても近い町だったので,歯抜け状態のように点在する空き家を使って撮影」したとインタビューで語る。「もうすぐなくなる町」,そう,仕事がなくなれば町から人がいなくなっていく。

 写植業はまた装置産業でもあった。3RYやPAVO-JLなどの手動機からSAZANNA-SP313やSAIVARTなどの電算機まで写植機のローン負担は重く,マイホーム購入とかわらない。写植の期間が組んだローンより短命という歴史の皮肉には抗えなかった。96-99年ごろ,飯田橋や水道橋で写植機が解体され不燃ゴミに出ていたのをよく見た。業者に引取り依頼すると費用が高いので自分でバラして不燃ゴミにという訳だ(文字盤が捨てられたのは見なかったが)。仕事の道具をバラす気持はどんなものだったか。【続】(M)

初出:Twitter 1 http://bit.ly/b4Upuw http://bit.ly/cjev4H http://bit.ly/99omkF http://bit.ly/dy4zuj 2010/04/28, 2 http://bit.ly/aIXPot http://bit.ly/dcn47q http://bit.ly/dgR9U6, 3 http://bit.ly/aL7L6F http://bit.ly/bhckTD 2010/04/30


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