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繙 蟠 録 2010年8月前半

2010/08/09 “当事者意識の肥大化”と史料批判

8月8日付『朝日新聞』書評欄が「ゼロ年代の50冊」のなかから小熊英二『1968』新曜社2009を採り上げている。「ゼロ年代の50冊」は選定内容が発表された時に,私は『朝日新聞』の批評の力の衰退を批判した(繙蟠録4/7付)。『1968』は『マオ 誰も知らなかった毛沢東』とともに典型的なトンデモ本である,と私は思う。

 しかし,『1968』に対する批判のなかに「当事者への取材をしていないからけしからん」という批判が少なくなかった。これはいかがなものだろうか。'68-'69全共闘運動はそれまで採り上げられることのなかった劣等生,被抑圧者,被差別者の声を採り上げ,優等生,抑圧者,差別者の階級支配を揺り動かした。当事者優位の考えは正しかった。しかし,正しさも行き過ぎれば誤りに転化する。当事者優位の考えも傲りに陥って肥大化すれば,害悪をまき散らすだけだ。

 歴史とは現在からの,過去の絶えざる建て直しであり,歴史の書き換えとは現在に対する立場と観点の変化にほかならない。私は,叙述が先か事実が先かという形而上学的な立論ではなく,その往復運動こそが歴史なのだという立場に立つ。ここで事実とは何か,すなわち史料批判が求められる。史料批判がなければ,肥大化した当事者意識は歴史を偽造し,史書を自慢話と隠蔽で収拾がつかなくなるものにしてしまう。

 では史料批判とは何か。今井登志喜『歴史学研究法』東京大学出版会1953はベルンハイムら先学の方法を検討しつつ,外的批判(資料の外的性質乃至価値の吟味)と内的批判(可信性,信憑性の吟味)に分けてまとめている。前者では古文書や逸話などは「個人の逸話といわれるものの如き,真実を伝えている場合は寧ろ少い」と指摘し,後者では陳述や證言に対し「一は論理的評価で證人は真理を述べ得たりしやであり,他は倫理的評価で證人は真理を述べる意志ありしや」,次いで感覚・綜合・再現・表現それぞれの錯誤についての検討と続き,可信性の吟味によって史料価値の判断に至る。

 さて,小谷充『市川崑のタイポグラフィ 「犬神家の一族」の明朝体研究』水曜社2010は,近年読んだ本のなかでも面白いものであった。あの市川映画のスクリーンに映し出される巨大明朝体の来歴を探究する著者の手つきはきわめて原則的である。(1)「ものづくりのプロセスにおいて…“完全なるオリジナル”などというものはほぼありえない」とする立場から映画と文字の置かれた時代と社会を考察するという立場,(2)「本人や当事者の証言を鵜呑みにしないのは調査の鉄則」さらに「監督本人すら気づいていないコンテクストの深みを探」るという観点,(3)明朝体史,活字-写植-デジタル…からバウハウス,歌舞伎,無残絵等々,縦横無尽の参照されているがけっして衒学的ひけらかしではなく「デザイン言語による映画評論の可能性を見出すこと」という目的意識に貫かれているという方法――である。

 市川崑監自身の「実は、あれは偶然から生まれたんですよ…」という証言記録で済ませるのではなく,「本人や当事者の発言を鵜呑みにしないのは調査の鉄則だ。この証言を客観的に裏付けることからはじめよう」(同書28頁)として明朝体史,活字-写植-デジタル…からバウハウス,歌舞伎,無残絵等々,縦横無尽に検討していく。まさに〈すべては疑いうる〉という学問的な目的意識がすべてに貫かれ,痛快この上ない。学問の(また革命の)面白さの根拠はここにあり,これが史料批判なのである。(M)

2010/08/05 “非実在”高齢者は社会の希望だ

各地で100歳以上の高齢者の所在が分からなくなっている問題で,不明者は全国で「計36人」(『東京新聞』8月5日付),「計57人」(『毎日新聞』8月5日付)とか。韓国の夕刊紙『文化日報』8月3日付は「日本イコール長寿国家は虚構?」と1面トップで報じた。

 “非実在”高齢者問題で役所を責める意見が少なくない。が,何か事あるたびに公権力が立入る領域を拡げていいのか。私人間の紛争があれば警察を呼び,子が泣き年寄りが見あたらなければ役所に立入を求める――これではドレイの極致。民事不介入は労働者庶民の永きたたかいの歴史によってかちとられてきた権利なのである。公園で若者が裸で騒いだぐらいで警察を呼ぶなんて最低である。隣人として顔をあわせて話せばいいことだ。警察や役所はずさんで出鱈目なママがいい。新宿区の“非実在”人口はホントは日本最大なのだ。

 明らかになりつつある事実は,埋火葬許可証がないまま,つまり死亡届が出されないまま所在をくらませ死んでいく「自由」がこの国にはまだあるらしいということ。

 友人諸兄姉! 生きる希望を捨ててはいけない。息をしているだけでカネがかかり,夜逃げも野垂れ死にもできぬ窒息状況がこの世のすべてを覆い尽くしているわけではないのだ。まだ隙間があるようなのだ。100歳まで,さらにそれ以上生き抜こう。(M)

【追記】痛いニュース2010/08/05 【高齢者不明】「答えたくない」「うちに来ないで」…高齢者の安否確認の拒否相次ぐ

2010/08/02 構造化信仰という技術決定論

『ユリイカ』2010年8月号(特集・電子書籍を読む!)がアメリカ発の電子書籍ブームの問題を照らし出している。(以下,敬称略)

 長尾真は「電子書籍は…本質的に三,四次元世界が取り扱える」のに対して「紙の書籍は本質的に一,二次元世界しか表現できない」「表現能力に根本的な違いがあり,全く違う表現力をもったメディアと考えるべき」と書いている。また,鈴木一誌は,仲俣暁生の「出版ビジネスのメインは……構造化されたテキストを持つ本です」という言葉と沢辺均の「電子書籍を視野に入れる場合は,本を作る段階で構造化をきちんとやらないといけない」という言葉を引いている。――書物とその歴史に対する視座がまったく欠落している。

 このような珍論が横行する背景には,《構造化》をめぐる一知半解があるのではないか。アメリカ発の電子書籍ブームの旗を振る人たちは《構造化》という言葉が好きなようだが,それはいったいなぜなのだろうか。

 個々の単位を篇-章-節…という階層構造に関係づけることと理解されているが,木簡から巻物を経て冊子に至った書物には,ヒトがものを考える仕組みにマッチした“構造化しえない”工夫がなされている。

 それが,定量による切断と連続である。一定量の字が行を,一定量の行が頁を,一定量の頁が1冊を形作る。この単位は論理的な階層とは別であり,ヒトの脳の一時記憶に対応している。

 本の後ろ三分の一ぐらいのところにあったセリフ何だったっけ? とか,右頁の始めに出てきた人名えーと? と振り返ることがあるだろう。ヒトが五感で捉えたことを記憶し,考える過程は,一時記憶と永続記憶との往復のなかにあるのである。

 書物の力は,ページによる切断(視覚単位の連続)という発明に支えられている。住所も不明,地図を見ても思い出せない店を,路地を曲がったとたん思い出したというのも同じ理屈だ。ヒトはこうして“キーワード無き検索”を日常的に幾億回となく繰り返している。

 近年の電子書籍論――といってもビジネス一筋の話が少なくないのだが――に欠落している大切なことの第一がここにある,と私は考えている。(M)


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