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繙 蟠 録 2010年4月前半

2010/04/14 出版=左翼の再生と大塚英志『大学論』

いわゆる「出版大崩壊」とは、この数十年の出版,流通,販売業態の終焉しか意味しない。大塚英志さんの新刊『大学論』講談社現代新書,2010年3月の時代認識は,この点で的確だとわが意を強くした。注目すべき箇所を以下に抜き書きする。

 そもそも携帯メールやブログ,プロフ,ミクシィ,ツイッターと,ぼくにはその区別さえつかないが,今という時代は人類の歴史の中でも「書きことば」が最も氾濫している時代のはずだということだけはわかる。(p.54)
〔…〕恐らく今の時代は抑え難いものを抱えた人たちは「文学」ではなく「まんが」や「ゲーム」や,ライトノベルズの中でも簡単には「文学」に回収されない分野に創り手としても読者としても向かうのだと思う。(pp.52-53)
 しかし近代という時代が不幸だったのは,「書くこと」が本や雑誌といった限定的なメディアやジャーナリズムやアカデミズムに囲い込まれ,「書くこと」はそれらの中で「特別な私」になっていく特別の手段と化してしまったことだ。(p.246)
〔…〕気がつけば「本」というメディア一つとってもWEBへの大移動はもう止められないという事態を迎えている。今年(二〇一〇年)は「出版」というメディアのあり方が解体していく決定的な一年になるとぼくは思う。
 「本」が全くなくなるとは思われないが,しかし「本」という形から多くの「ことば」や表現が出ていかなくてはならなくなる。それは避けようがない。ずっと氷河期のようにつづく「出版不況」は「不況」ではなくて一つの局面のおわりであり,次の局面の始まりなのだ。
 しかし,やってきつつあるのは悪い時代ではないと思う。
 誰もが書き,そしてそれを世界に発信できる。そういう時代が,ようやく今,ここにある。
 やってきたのは散々にいわれたポストモダンではなくて「書くこと」「発信すること」が徹底して機会均等化された「近代」の理念が実現した時代だ。(p.247)

そう,そのとおりだ。危機に瀕してこそ,生命は躍動する。「出版不況」は,出版=左翼の再生のためのリセットなのである。(M)

2010/04/12 20年前の猪野健治さんの予見

1989年ごろか(正確な放映日は未確認),フジテレビのNONFIXで「曲がり角に立つ 平成の右翼」という番組が放映された,らしい。その情報ともども友人から教わったのだが,YouTubeで見ることができる。→5-1 5-2 5-3 5-4 5-5。この番組の最後(5の最後)に,猪野健治さんのコメントがある。

 左翼,右翼という言葉そのものが,そう早急にはなくならないとは思いますけども,やがて死語になる時代が来ると思います。それに代わって右翼団体を名乗ってない,新しい意味での民族主義が台頭してくるんじゃないかと思います。

最近の動きは,この猪野さんの予見を事実で裏づけている。在特会の動きがそうであり,高校無償化からの朝鮮学校排除をめぐる動きをみてもそうだ。日本社会のなかから「朝鮮学校に対する「高校無償化」除外反対! 除外は人種差別撤廃条約違反だ! 鳩山政権は差別をやめろ! 「第三者組織」を口実にした介入反対! 民族教育は社会的権利だ! 補助金打切りをちらつかせた橋下大阪府の卑劣な介入反対! 米占領軍と日本政府による朝鮮学校閉鎖令を日朝人民の実力闘争で撤回させた阪神教育闘争を今こそ想起し,日朝連帯の伝統を復興しよう!」という社会運動が澎湃とわき起こって当然なのに,なぜそうなっていないのか!

 中国や韓国での「反日」教育を非難する意見があるが,「反日」という意識はけっして教育によって作り出されたものではなく,また作り出し得るものでもない。抵抗者の頭脳に「反日」という意識を生んだのは,日本の侵略という歴史的事実であり,事実を隠蔽し責任をとらない日本の権力者(および,それをいまだに許している民衆)なのである。民族主義と排外主義から解放されなければならないのは,被抑圧者(抵抗者)の側ではない。抑圧者(侵略者)の側なのである。(M)

2010/04/07 『朝日新聞』書評――噴飯ものの思考停止!

平日は『東京』『毎日』2紙を読む私だが,毎週日曜は『読売』『朝日』『日経』を併せて5紙を読んでいる。主に読書欄を読むためである(求人欄を読むのが中心になるときもあるのだが……)。4月4日の『朝日』読書欄には驚いた。悔しくて情けなかった。おさまらない気持ちを即,ツイッターした。

新聞書評の水準低下は目を覆う。朝日4/4付「ゼロ年代の50冊」は『マオ 誰も知らなかった毛沢東』を50冊のうちに選定する! この分野で矢吹晋氏の批判に未知は怠慢,未知でもトンデモさを見破れなければ阿呆,情けないの一言に尽きる。人文書が新書になり,歴史意識が失われて久しいとはいえ…(2010/04/04 15:03
矢吹晋氏の実証的『マオ』批判 http://bit.ly/cvDXsH http://bit.ly/bEUp8W http://bit.ly/8Z8vTQ http://bit.ly/cPA7vA 関連の私の読書人書評 http://bit.ly/9EsFUP をお読みください。(2010/04/04 15:04

 破廉恥朝日の「ゼロ年代の50冊」には何と,他にも,小熊英二『1968』新曜社など複数のトンデモ本が入っている(それぞれについての批判は,ググっていただければすぐに見つかるだろうから,ここでは書かない)。
 問題は【新聞や週刊誌で書評を執筆している方に,2000~09年の10年間に出た本の中からベスト5を挙げていただきました。317人にお願いし,151人から回答が寄せられました。ベスト5を5点~1点と点数化し,順不同はそれぞれ3点で集計】したものが,これだということである。なるほど,これが,「授業料無償化の対象に朝鮮学校を含めるべきでない 53%」という世論調査が示す“民度”に見合った水準なのか。愚劣! 卑劣!
 前述の矢吹さんによる『マオ』書評(『中国情報源 2006-2007年版』蒼蒼社,pp.196-229)は次のように的確に指摘している。

 もし本書がフィクションならば,私がこの書評を書く必要はない。文芸評論家の仕事だ。
 今回の『マオ――誰も知らなかった毛沢東』は,「数百人をインタビューして」,「膨大な文献目録」を付しているのは,その「実証性」「史料に基づく新たな現代史解釈」なるものを売物にしたいためだ。現に日本のほとんどの大学教授はこれを「歴史書」と受けとめ,やれ「衝撃だ」とか,やれ「現代史の書き換えが必要だ」とか大合唱を続けているのが,その証左である。
 これらの間違った情報に誘導されて,普通の読者は,「虚実皮膜」というよりは,「虚ありて実なし」の偽作をあたかも史的真実として読む恐れが強い。私が徒労感を押さえて,あえてこの一文を書くのは,この問題の根深い根源を剔抉するためにほかならない。(p.200)

 さらに,「目利き」どころか盲従無批判に『マオ』を持ち上げた国分良成や松原隆一郎とともに莫迦っぷりを曝した天児慧に対して矢吹さんは次のように批判しており,これはまた,今回の朝日「ゼロ年代の50冊」に関与した151人の莫迦ども(名を名乗れ!)にもそっくり当てはまる。

 『マオ』を読めば,本書の真贋は明らかだ。その真贋を鑑定するのが書評家の責務なのだ。イェール大学のスペンス教授やコロンビア大学のネイサン教授は,本書の記述を細かく点検して,その根本的欠陥を剔抉し,本書を否定した。天児は,いくつかの疑問は提示したが,本書の記述を何一つ明確に肯定できず,否定もできない。脱帽するのか,しないのか,曖昧な態度をとり続け、そのことによって三文小説のPRに貢献し,原稿料を稼いでいる。これでは中国研究者失格と見るほかはあるまい。このような思考停止,判断停止教授を師に持つ学生には同情を禁じ得ない。(pp.223-224)

 『朝日』は書評の看板を降ろせ! このような思考停止,判断停止紙面を購読し続ける読者には同情を禁じ得ない。(M)

【関連】大沢武彦「ユン・チアン,ジョン・ハリディ著『マオ-誰も知らなかった毛沢東』をめぐって」2006/07/21中国現代史研究会(多余的話 07/22)
前田年昭「扇情的「嫌中国」への「徹底批判 実証欠く中国研究の姿勢を問う 書評・矢吹晋著『激辛書評で知る中国の政治・経済の虚実』」〔『週刊読書人』第2693号 2007年6月22日付掲載〕


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