繙 蟠 録 2009年12月前半
- 2009/12/15 【イベント案内】日本語の文字と組版を考える会を振り返る
来年2月,もじもじカフェで私が話します。もじもじカフェとは,2006年6月から隔月で「市民と専門家・業界人がお茶を飲みながら気楽に文字と印刷について語り合う場」です。まだ先のことですが,要予約(参加申込みの受付は来年1月6日から)なので,ご参加いただける方のために早めに告知しておきます。以下に案内文を転載します。(M)
詳細案内 http://moji.gr.jp/cafe/themes/021/
もじもじカフェ第21回「日本語の文字と組版を考える会を振り返る」
- 日時 2010年2月6日 15:00~17:30(開場14:30)
- 会場 バルト(東京・阿佐ヶ谷)
- ゲスト 前田年昭さん(編集・校正者)
- 参加費 1000円(ワンドリンクつき)
「日本語の文字と組版を考える会」という公開セミナーが,1996年12月から1999年12月まで,計17回にわたって東京で開かれました。印刷・デザイン・編集など,印刷物に関わるさまざまな職種の人たちが毎回二百人も集まり,セミナーを聴いて熱心な議論を行いました。
この会が始められた背景には,パソコンを使って組版*を行う技術であるDTP の急激な普及による業界の混乱があったと言えるでしょう。第1回の,デザイナー・鈴木一誌(ひとし)さんによる「ページネーションのための基本マニュアル」提唱に続き,画像,ワークフロー,文字コードなど幅広いテーマが取り上げられました。
「セミナー」といってもただ教わるだけでなく,質疑応答も盛んで,毎回,数十人単位で行われた二次会は,編集・出版,組版・デザイン,製版・印刷の異業種交流の場ともなりました。さらに,終了後にセミナーの内容と参加者の感想・意見の入った会報が届けられるといった,双方向性を重視した催しでした。
今回は,この会の初回から第12回までの世話人の一人であった前田年昭さんをお迎えし,「日本語の文字と組版を考える会」がどういった問題意識のもとに始められたのか,投げかけた問いは何か,また会の活動が現在に遺したものなどを伺っていこうと思います。
印刷・出版業界外の方の参加を歓迎します。印刷・組版のことをご存じない方でも分かるように配慮しますので,ぜひご参加ください。
*【組版(くみはん)】言語を扱う技芸であり,文字をページに配置する技芸であり,印刷の版(表面にインキを付けて印刷を行うもの)を作るために文字や画像などを配列すること。
▼必読! kscykscyさん「「闘う反共リベラリスト」姜尚中の不気味な予言」(日朝国交「正常化」と植民地支配責任 2009/12/15付)
- 2009/12/11 【イベント案内】「共に考えることについて:研究機械の場所と運動」
「コンフリクトの人文学」セミナー/「横断するポピュラーカルチャー」研究ワークショップ
「共に考えることについて:研究機械の場所と運動」開催のお知らせ日時:2009年12月19日(土曜日)午後2時~5時(以降交流会)
場所:大阪大学豊中キャンパス 大学教育実践センター 開放型セミナー室
スチューデントコモンズ(教育研究棟Ⅰ〔旧:自然科学棟〕1階)
※会場は,大阪大学公式HP内地図の41番です。
参加自由,無料です。■討論・問題提起
李珍景(いじんぎょん:研究空間〈スユ+ノモ〉)
金友子(きむうぢゃ:研究空間〈スユ+ノモ〉)
小野俊彦(おのとしひこ:フリーターユニオン福岡)
前田年昭(まえだとしあき:『悍【HÀN】』編集人)詳細案内 http://www.let.osaka-u.ac.jp/crossing-popularculture/report.html#20091219 / チラシ[PDF]
- 2009/12/07 「場」をつくりだすこと
日本における新左翼旧左翼,リベラル左派が繰り返し続けている“民権から国権への変質と転向”は,いったい何に起因するのだろうか。
ひとつは「場」をつくりだすことの決定的な大切さに対する一知半解があるように思う。ある哲学者が「医学が種々な治療法を原則上認めることと所与の病気の治療に当たって或る特定の方法を守るように要求することとを混合する」非原則性を批判したが,「場」(思想誌や討論集会など)は社会変革に「種々な方法を原則上認め」論争する土俵であり,それ以上ではない(そこでは誰が誰をも代理も代弁もできないし,してはならない)。これに対して,政治結社の機関誌は社会変革の方法として「ある特定の方法を守るように要求する」ものだ。この区別ができず「次元思考」の原理を持たないものが,どうして激動の社会状況に分け入り,反権力の大きな流れに統合することができようか。
批判精神として優れた視点を提示しえていても,共同行動のなかで自己の信条による線引きを持ち込んで選別したり排除したりする傾向は,「場」の持つ意義を理解しないがゆえに一見強く見えても実は脆く弱いものとなる。全共闘運動は第一に「日本共産党」を詐称する修正主義派を積極的に批判し,第二に「反日共」系トロツキズム諸派に消極的に反対した革命的分派闘争でもあった。政策を異にする政治組織が袂を分かつのは必然であり,当然のことである。しかし,多くの大衆運動組織や学術団体までを分裂させたことは行き過ぎの誤りだった。以降,日本の反権力運動は「場」を持てないまま現在に至っている。論争の「場」を持てないものは不可避的に閉鎖性と排他性に陥る。
わが不安定貧民は,あれこれを選択する力自体をすべて奪われているのだからすべての力を奪い返す以外にない。にもかかわらず,あたかも選択する「自由」を持たされているかのような大きな錯覚に陥ってしまう。ここに権力がはりめぐらした網の目がある。「政治」もひとつの消費行動になり,ユニクロで多様なカラーを選ぶ「自由」と同次元で,政治談議や選挙において「自由」にあれこれを選択しているかのように思い込まされる。少なくない元活動家諸先輩の「国士」への変質と転向はここから始まっているのである。(M)
▼必読! 目取真俊さん「岡田外相と「市民との対話集会」全面公開」1 2 3 4 5 6 7(海鳴りの島 2009/12/06付)/ 金光翔さん「民主党政権支持はアフガン侵略容認」(私にも話させて 2009/12/06付)
- 2009/12/04 「日米同盟の重要性」の裏にある事実
私の愛読ブログのひとつ,目取真俊さんの「海鳴りの島から」の12月3日付「沖国大祭での伊波市長の講演」で,重要なことを知る。「在沖海兵隊のグアム移転は司令部中心と言われてきたが,普天間飛行場のヘリ部隊も含まれる」というのだ。詳しくは,紹介されている宜野湾市基地渉外課のページの二つの資料(宜野湾市長による与党国会議員への説明資料,2009/11/29)に載っている。
目取真さんのブログは次のように結んでいるが,そのとおりだと私も思う。
- つまり,これまで日米両政府が言ってきたことや現在進められている普天間基地「移設」計画と米軍のグアム・テニアン移転計画との間には大きな違いがあり,米軍の計画に基づけば辺野古に新基地を造る必要性はまったくない〔中略〕伊波市長が明らかにしている事実が隠されたまま,辺野古沿岸部への「移設」という現行計画やその「微修正」以外に選択肢がないかのように日米両政府間で議論されている。その異常さとまやかしを広く知らせる必要がある。〔中略〕世界各地で戦争を引き起こし,必要のない新基地を数千億円も費やしてあえて造らせようとする者たちがいる。「日米同盟の重要性」などというきれいごとの裏にあるのは,軍需・基地利権に群がる者たちの強欲なのだ。
目をそむけ続けているとやがて視えなくなるというが,注視しつづける必要がある。(M)
【関連】「海兵隊は辺野古ではなくグアムへ返せる!」普天間基地返還~在日米軍撤退のシナリオ~(週刊朝日 2009年12月11日号配信掲載,2009/12/02)
- 2009/12/03 「知る」ということには二とおりある?
人文書在庫僅少本フェアで買い求めた藤田省三『現代史断章』(1974,未来社)を読んだ。中に収められている「雄弁と勘定」(初出は『毎日新聞』1973.1)のむすびに深く頷かされる。次のように藤田省三は書いている。
- 〔前略〕「知る」ということには確かに二通りあって,一方は「計算」ばかりする方でそれによって分かるのは「ふところ具合」と「頭数」なのだが,人間が見えるというわけにはいかない。計算の結果見えるのは数字だけだ。利害必ずしも相反しない同じような連中が揃っている場合ならそれだけで大体のことは足りるのだけれども,「見知らぬ相手」と対し合うことになると計算だけでは何も出来ない。相手の感受性や考え方をちゃんと見なくては駄目なのだ。そうでなければ肝心の点をお留守にすることになり易いからである。日本の社会がどうしてこんなに勘定ばかりする「計算社会」になったかといえば,一つの理由は日本が「見知らぬ者」の相対し合う社会ではなくて同じような者が相集まってお互いに初めから「分かり合おう」とするような社会であって,言ってみれば「自明性の領域」を出来るだけ大きくしようとする傾向がいつも内部にはたらいている社会であり,従って「数える」だけで大体のことは片付くものだから,現代資本主義の機械導入とともに「計算」の方だけが異常に能率を上げる結果となったという点にあるのではなかろうか。計算主義だけになってしまえば「何が知るべき大事なことであるか」を見極める比重感覚が失われて来るのはかなり簡単だ。利益数量の「成長」が価値とされるのだから,「正しさ」とか「真なるもの」とかいった中心価値が隅の方へ押しやられてしまうからである。それは精神的世界の腐朽である。
政治運動や宗教運動,アカデミズムでもいま,「同じ陣営」の城のなかに閉じこもって,それぞれの城の外には広大なニヒリズムの海が広がっている。「精神無き専門人」たちは閉鎖性と排他性に満ちた「同じ陣営」の内部で傷をなめあう。反権力ジャーナリズムは衰退し,閉じた同人誌と化してしまっている。この景色を打破するためには,再びみたび「大きな物語」を復権再生する必要がある。(M)
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