繙 蟠 録 2009年11月前半
- 2009/11/12 “我慢できない読者”という小心さで革命ができるか
『テレビブロス』連載コラムのひとつ,豊﨑由美「帝王切開 金の斧」の11月11日発売(11月14日号 11/14-11/27)の回が時代の気分を捉えている。コラムの主旨は,リュドミラ・ウリツカヤの『通訳ダニエル・シュタイン』という小説を「9・11以降,他者に対する不信感から世界が狭量な排他主義に覆われている時代だからこそ読んでほしい」というものだが,豊﨑さんはその前ふりとして次のように書いている。
トヨザキがここ数年痛感しているのが,我慢しない読者が増えてきてるってことなんですの。早々に,物語が動き出さなかったり,どんな話になるのか見えにくかったりすると読み通してくれない。たいていの小説は読み進めていけば,最初「?」だったことも明らかになっていき,わかりにくかった分,「!」となった瞬間の感動や快感もひとしおですのに,そこまで我慢してくれない。これは,由々しき問題なんではありますまいか。
反権力運動の楽しさは,ここで豊﨑さんの言っている小説を読む感動や快感を含んでいると私は思っている。革命とは「自然改造,社会改造,思想改造」のことであり,自他の世界認識を変革していくことほど楽しいことはないからだ。
そう広くもないアクティヴィスト諸兄姉の「陣営」内にも“我慢しない読者”が増えているという“由々しき問題”があるのではないか。「それって○○派でしょ」「キミは△△主義なのか」と決めつけを急ぎ,自らの閉鎖と独善の城に立てこもる。これって小心な“我慢しない読者”そのものではないか。太田昌国さんが指摘しているとおり,「言い訳,居直り,判断停止,沈黙,そして無限の転向――この「陣営」の言論圏と運動圏を覆い尽く」す現状は,やはり正されなければならない。
右傾化翼賛化いや増す今日このごろ,思想的には徹底的に切断せよ,孤高を楽しむ余裕をもって純化せよ,と私は自らに言い聞かせている。だからこそ,「同じ陣営」意識の閉鎖性と排他性を意識的に打破したい。いかなるところにも出かけていって,自らの見解を隠すことなく語り続けたい。(M)
- 2009/11/11 派兵する「東アジア不戦共同体」
的確に本質をついた見出しは私の愛読ブログのひとつkscykscyさん「日朝国交「正常化」と植民地支配責任」の11月11日付「派兵する「東アジア不戦共同体」」をそのまま引いたものだ。
kscykscyさんは【「東アジア共同体」をめぐっては,日米安保論者=右派vs東アジア共同体論者=左派,という怪しげなリングが作られ,そこでめいめいプロレスごっこをしているようにみえる】として,進藤榮一『東アジア共同体をどうつくるか』(2006 ちくま新書)を材料に鳩山政権の方向性とその歴史認識を問うている。そして,【進藤は「大東亜戦争」史観を薄めて戦後日本の経済成長礼賛論を接ぎ木し,かつそこから「東アジア共同体」を展望】するものだとして,次のように指摘している。
進藤のいう「東アジア不戦共同体」とはアセアン+3による「域内平和」を約束し,「東アジア平和維持部隊」という名の軍が「途上国の戦場や現場で部隊を組んで一緒に,平和復興作業に当たる」というものだそうだ。別に私は分析したり裏を読んだりしているわけではなく,進藤の言っていることをつぎはぎしているだけである。歴史認識のときも書いたが,こんなに剥き出しに語ってしまってよいのだろうか。
このシナリオならば「東アジア不戦共同体」の「平和維持部隊」が,朝鮮民主主義人民共和国に駐留して「非核化」を遂行するといったことも考えられるし,何より「東アジア不戦共同体」は域外への派兵が前提になっている。アセアン+3間での「域内平和」などもともと破られるはずもないのだから「不戦」も何も無い。派兵する「東アジア不戦共同体」というのが,東アジア共同体論者の描く「安全保障」構想なのであろう。
「東アジア共同体」設立へ向けた「東京宣言」(11月7日,東京)は,【3年間で5カ国に5千億円以上の政府開発援助(ODA)供与や,青少年約3万人の日本への受け入れ】を打ち出したが,外国人参政権問題をめぐる動きと考え合わせると,国境内外における日本人度による序列化(=「非国民」の差別選別)として警戒すべきものと思う。(M)
- 2009/11/08 左翼のダメなところ
左翼運動に入った理由として“友人に誘われてデモに行って,機動隊に殴られたから…”という物語がある。本当か。本人がそう思い込もうと真実ではない。誘われて行ったまではよしとしても,痛い思いをするところは避けよう,とならずに,また行こうと思ったとしたらきっと違う理由があったはずである。その心と志を想うことなく,旧新左翼組織の一部リーダーは殴られるような場に行かせることが「階級形成」だなどと思い込んだ。殴られたら反抗が生まれるというなら,鉄拳制裁が頻繁であった(らしい)日本帝国軍隊でなぜ隊内反乱が一般化しなかったのか。
人が行動に移るまでに心を動かされるのは,多くの場合,知らないことを知ってビックリさせられたか,ジーンと沁みて情を動かされたか,どちらかである(いささか大雑把な断定であるが,とりあえず話を進める)。それまでの自分と違う正しさや美しさ,カッコよさ,面白さに触れることでそうなりたいと思って。あるいは,それまでの自分のなかの誤りや醜さ,ダサさ,面白くなさに気づくことでこれではいけないと決心して。そういうことではないか。デモで痛い思いをしても,それ以上に惹きつけられる何かがあったはずである。ただ,ここで強調しておきたいのは,それは必ずしも正しさだけではないということである。面白さやカッコよさの要素もあるはずである。
日本の新旧の左翼のカッコ悪さを示す典型的な事実を挙げよう。大学のキャンパス内で他党派が貼ったステッカーの上に自派のステッカーを貼る。ほとんどの党派がそうする。なぜか。自らの主張に自信と確信が持てず,他派と対比されるのが嫌だからなのか。まさかそれほど小心とは思えないが,逆に勇気ある者の行為とも思えない。では,なぜか。おそらく,そのキャンパス内で存在しているのは唯一“わが派”のみである,と威張りたいのである。犬が縄張りの維持・拡充のためにマーキングするようなものである。
私はこれまで属してきた組織(複数)の内部でこの問題を提起したが,なかなか理解されない。“伝統”はそれほどまでに根深い。莫迦であり,滑稽である。カッコ悪いことこの上ない。私はそう思う。ステッカーが並んでいるのがよいか,他派のステッカーを抹消した上に自派のみを貼っておくのがよいか。当局がステッカー貼りを弾圧してきたとき,どちらが,闘いにとって有理有利有節か。自明である。また,他派との思想闘争,理論闘争においても,どうするのが最もよいか。対比の中で闘い取った優位は根強いが,対比を避けた中での「優位」は一時的には強くみえても,脆くはかないものである。
対話は弁証法であり,論争は発展の契機である。弁証法を掲げながら弁証法を知らない――これが日本の左翼のダメなところの第一である。(M)
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