繙 蟠 録 2009年5月前半
- 2009/05/12 「就職互助会」にあかんべえをする偏屈精神万歳
私の愛読ブログのひとつ「私にも話させて」で金光翔さんが「論壇・雑誌ジャーナリズムの崩壊は活字文化の勝利」と書いている(09/05/11)。雑誌の廃刊ラッシュは,学者や言論人の論議が結局のところウェブ上の書き込みとイコールかそれ以下という現状の追認であり,【インターネットという活字文化による読者への教育的効果とでも言うべきであって,あえて言えば,活字文化の勝利である】という。正しい。
記事のポイントはその先にある。【<佐藤優現象>は,こうした「出版不況」と密接な関連がある】というのだ。【出版不況の下でいつ会社を放り出されるか分からない編集者たちは,転職時に役に立つように,「売れっ子」とお近づきになり,人脈を形成し,「売れっ子」の本を出したという「実績」を作ろうとする。……
「売れっ子」たちが,一つのグループを形成すれば,より多くの編集者を引きつけられるようになるだろうし,自分の実力に不安のある書き手は,「売れっ子」という表象を不断に作らなければならず,書きまくらなければならないのである。例えば,佐藤が中心的な役割を果たしている「フォーラム神保町」(会員を「メディア関係者」に限定)は,こうした「売れっ子」の互助会のようなものだが,出版不況下の編集者たちにとって,就職互助会という意味を持っていると思われる】。
なるほど! 偏屈編集者の私は,なぜ佐藤優批判,茂木健一郎批判,香山リカ批判を出さないのかと憤激にも近い気持で友人たちに言い続けてきたが,多くの版元や編集者が佐藤優や茂木健一郎や香山リカら莫迦どもの提灯持ちに成りはてている現状の説明として,とても腑に落ちる。
【こうした形で出版業界で<佐藤優現象>が持続することは,ますます,論壇・雑誌ジャーナリズムの崩壊を加速させることになるだろう。小谷野敦が指摘するように(……),佐藤こそが「論壇の衰退」の元凶の一人であり,<佐藤優現象>こそが,論壇・雑誌ジャーナリズムの無内容化の象徴だからである。多くの読者はそのことに気づいている。こうして,<佐藤優現象>と「出版不況」は,相互に規定しつつ,相互の現象をより強めることになるだろう。
したがって,論壇・雑誌ジャーナリズムが崩壊し,その社会的影響力を弱めることは,日本の言論にとって大変良いことであって(……),こうしたプロセスが徹底されることこそ望ましい】とのむすびは,憤激一途の私の気持を落ち着かせてくれた。(M)関連:金光翔「辺見庸の警告と<佐藤優現象>の2つの側面」08/11/09。
- 2009/05/09 はたして問題は「企画第一主義」にあるのか
朝日新聞阪神支局襲撃事件の「実行犯手記」を掲載した『週刊新潮』誤報問題を雑誌ジャーナリズムの危機として捉えることは間違いではない。一例として,『東京新聞』2009/04/17付特報「「週刊新潮」誤報問題 雑誌ジャーナリズムの危機」がある(全文は現在は有料でないと読めない)。【青山学院大学の大石泰彦教授(メディア倫理法制)はまず,「連載を重ねるごとに,物証もなく関係者にもたどりつけないといったマイナス材料を無視するようになった。取材の根本となる事実を無視した企画第一主義に陥ったのではないか」と批判する】。
私はこの見方に反対である。事実か企画かの対立ではない。企画とは,事実に迫りうる哲学である。「事実を無視した企画第一主義」ではなく,問題は,事実に迫りうる哲学の欠如に,つまるところ企画の力の欠如に起因する。私はかつて【歴史とは現在からの,過去の絶えざる建て直しであり,歴史の書き換えとは現在に対する立場と観点の変化にほかならない。私は,叙述が先か事実が先かという形而上学的な立論ではなく,その往復運動こそが歴史なのだという立場に立つ】と書いた(*)。
ジャーナリズムの危機は,企画か事実かという二項対立では解き明かせない。ルポルタージュの時代といわれた60年代には“報じられていないこと”を暴くことが力になった。いま求められているのは,真実に迫りうる哲学を奪い返すことではないか。ここに,弊誌が掲げる「すべてが報じられても,何ひとつ知りえない時代に」の真意がある。(M)
- 2009/05/08 誌名のことなど
誌名の「悍」は,字義が「たけだけしい」と「おぞましい」という両義的なところから採りました。文字も言葉もすぐ手垢がついてしまいます。たとえば,「湯武命を革(あらた)め,天に順(したが)いて人に応ず」に由来する「革命」という言葉も簒奪され,いまではすっかり古びてしまいました。時には「保守反動」という言葉をもって革命精神を表すしかない場合もあるご時世です。ですから「悍」の字義が両義的であるということは,とても魅力的に思えたわけです。また,「悍」の現代日本漢字の読みは「かん」ですが,あえて「はん」を読みに採ったのは,中国語,朝鮮語,ベトナム語とも「悍=han」であること,「叛」の日本語読みにも通じること,「恨」の朝鮮語読みにも通じること――などが理由です。
ついでに,この編集人日録の名前「繙蟠録(はんはんろく)」にも触れておきます。「繙」は「ひもとく,本を開いて読む」,「蟠」は「わだかまる,(不満などが)いつまでも残る」です。よろしくお願いします。更新は随時です(生来ずぼらなものですから,あえて毎日更新とは言いません)。(M)
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