繙 蟠 録 II 2024年1-6月
- 2024/05/16 樋田毅『彼は早稲田で死んだ』を批判する
樋田毅『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋,2021年,以下〈樋田本〉と呼ぶ)を読んだときに感じた強い違和感と反発は今も消えない。ついで,映画『ゲバルトの杜』(代島治彦監督,2024年)が公開された。監督は〈樋田本〉によって「「ゲバルトの杜」の恐ろしさを知っ」て,「この本を原案に」「内ゲバについてのドキュメンタリー映画」をつくったという(公式ウェブ)。私は見ていない。見ずに批判するのは間違っていると思うから映画についてはコメントしないが,知人がプロデューサーとして映画製作に参加していると知り,〈樋田本〉への批判だけは伝えなければ,と以下のメッセージを託す。
〈樋田本〉は,川口大三郎虐殺事件を革マル派による「内ゲバ」とみる。「彼は早稲田で死んだ」という書名は,「ゲバルトの杜」という醜悪な映画タイトル同様,ここにあらわれている見方,捉え方は,当時の早大当局(村井資長総長)の「派閥抗争」という傍観者的な見方と同じである。これは,歴史的事実なのか。否,彼の死は「内ゲバ」によるものでも「内ゲバ」に“巻き込まれた”ものでも断じてない。「早大当局と結託した革マル派」による学生に対する暴力支配が事件の本質である。「彼は革マル派と早大当局によって殺された」が事実である。行動委員会(WAC)や当時の運動の歴史が,後知恵のきれいごとで改竄され,消されている(旧 早大政治思想研究会有志「川口大三郎君は早稲田に殺された」(『情況』2023年冬号掲載)を参照されたい)。これは歴史への修正,改竄であり,事実を覆い隠すものは,その事実をつくり出した犯人である,という格言はここでも見事にあてはまる。関東大震災時に朝鮮人が“死んだ”,という言説を想定してみれば,歴史の修正,改竄が誰を利するものか明白である。
〈樋田本〉は「不寛容に対して寛容で」立ち向かえと主張する。本のなかでは,78ページ,115ページ,153ページをはじめ253ページにいたるまで繰り返し,書かれている。空語である。自らをジャーナリスト(奥付)と名乗るが,言葉に責を負うプロフェッショナルの言葉とは思えない。イスラエルのパレスチナジェノサイドに抗議する反戦運動の全米,世界への現下のひろがりに直面した大統領バイデンは5月2日,「抗議する権利はあるが,混乱を引き起こす権利はない」と反戦運動への弾圧を理由づけた。逮捕者2000人という“混乱”は誰が引き起こしたのか。イスラエルの侵略を後押しするバイデン自身が作りだしたものではないのか。抑圧には反抗しかない。「不寛容に対して寛容で」という主張は,「不寛容」の暴力を容認し,後押しすることに帰結する。
〈樋田本〉は,1994年,奥島総長によって,「早稲田大学は革マル派との腐れ縁を絶つことができた」(256ページ),というが,これが解決なのか。私の違和感は,光州事件を題材にした映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』(チャン・フン監督,2017/2018年)への違和感と通ずる。映画『タクシー運転手』を評価する人が少なくないが,反共国家韓国の現実は何ひとつ変わっていないからだ。いま,日本の大学には,自由と民主主義,自治はない。大学の構内に交番(2013年,同志社大学)など考えられない事態が起きている。いったいどこに,学問研究の自由,大学の自治があるというのか。ジャーナリズム,アカデミズムは,難儀なめに遭わされている人民の,直面している問題の解決に役立ち,闘いを励ますものでなければ,その存在意義はない。本も,そして映画も,である。
自由民権運動の元闘士が「国権」にとらわれ転向をとげた姿を見て,北村透谷は「会ふ毎に嘔吐を催ふすの感あり」(「三日幻鏡」1892)と書いたが,半世紀前に「国際主義と暴力」を称揚しながら今,しれっと「非暴力」と言い出している元活動家に対しても,さらにその時流にのって「当時から非暴力を主張していた」と説教しに現れた〈樋田本〉を見ても,私は同じ思いに駆られる。私は〈樋田本〉を許せない。(M)
初出:https://www.pot.co.jp/diary/20240514_020655.html
転載:https://note.com/freegaza/n/n292d8a7c9576
- 2024/05/10 読書会『抗日パルチザン参加者たちの回想記』第5回ごあんない
第1回読書会(5月20日)で,「回想記」の歴史的背景,1930~40年代の朝鮮人民の抗日革命闘争史を学んだ私たちは,第2回(8月13日,報告:田代ゆき,キム・ヨンイル,須田光照),第3回(12月2日,報告:キム・ヨンイル,前田年昭),第4回(4月6日,報告:土田宏樹)と,参加者それぞれが選んだ回想記について報告し,全員での意見交換,討議を続けてきました。
次の第5回は,戦後日本の朝鮮近代史研究のパイオニアであった梶村秀樹(1935~89)の『排外主義克服のための朝鮮史』(平凡社ライブラリー,2014年12月)を学ぶことにします。梶村は,朝鮮は外の大国によって動かされてきたという見方や,古代のまま停滞しているという見方を批判し,朝鮮史の原動力は朝鮮人民の主体的内在的な力にあるという「内在的発展」の立場を強調しました。朝鮮史の研究と同時に彼は,朝鮮人差別撤廃の運動を推し進め,日本の自民族中心の排外的あり方を批判し続けました。本書は,日本の労働者のなかにある民族排外主義を克服し,朝鮮人民との組織的な連帯をめざす思想的な手がかりです。
抗日パルチザン闘争と「在日朝鮮人運動と日本人民の堕落」,そのなかで連帯をめざして試行錯誤した少数の先人の闘いを知り,学ぶことは,私たち自身の生きる糧です。労働者に国境はありません。ともに読み,考え,話し合いましょう。
- 6月30日(日)午後1時15分~4時半
- 東京・赤羽北区民センター(JR北赤羽駅徒歩1分)第1和室
- 参加費 500円(要予約)
- 主催 前田年昭 電話080-5075-6869
tmaeda1966516@gmail.com
13:30~14:30 報 告 前田年昭(組版労働者)
『排外主義克服のための朝鮮史』のいま
※とくに,Ⅱ―三,四を重点的に読みます。
14:30~16:30 討 議
- 2024/03/12 読書会『抗日パルチザン参加者たちの回想記』第4回ごあんない
第1回読書会(5月20日)で,「回想記」の歴史的背景である1930~40年代の朝鮮人民の抗日革命闘争史を学んだ私たちは,第2回(8月13日)と第3回(12月2日)で,参加者それぞれが選んだ回想記について報告し,全員で意見交換を続けてきました。権力が歴史修正主義をつよめてきている今,差別や抑圧,抵抗の闘いの歴史を知り学ぶことは,私たち自身の生きる糧です。
労働者に国境はありません。被害者にも加害者にもなることなく,国際主義を生きるにはどうすればいいのか。ともに読み考え,話し合いましょう。- 4月6日(土)午後1時15分~4時半
- 東京・赤羽北区民センター(JR北赤羽駅徒歩1分)第1和室
- 参加費 500円(要予約)
- 主催 前田年昭 電話080-5075-6869
tmaeda1966516@gmail.com
13:30~14:30 報 告 土田宏樹さん(元郵便労働者)
- 未来の幸福のために
……リ・ヨンスク(特選集15,第4巻第28話) - トゥマン(豆満)江の氷塊をかき分けて
……キム・ドンギュ(特選集18,第7巻第9話) - カガヨンでの工作
……キム・ドンギュ(全訳「敵を瓦解させて」,第3巻第21話)
→第4回テキストpdf
- 2024/02/07 桐島聡さんの生涯を「転向」とみる考え方について
謬論を正したい。
「潜行」中のふるまい,ライブを明るく盛り上げたとか,近所の道を舗装したとか伝えられていることは,その非転向を裏づけている,と私は考えている。死刑判決をうけて35年,名を変えて生き(潜行35年!),死のまぎわに「俺は秩父事件の首謀者だ」と名乗った井上伝蔵は,娘の証言によれば生前の姿は「まったくかげのない明るい父」だったというではないか。元来,主義者は明るいものである。また,1980年に中国から29年ぶりに帰国した(獄中27年!)伊藤律の会見時の姿には,「日本共産党」が断じたスパイなどではなく,志を曲げていない主義者の明るさがあった。
桐島さん没後の警察による家宅捜索で,いわゆる左翼文書が出てこなかったことをもって,活動から離れたと主張する向きもあるが,それは的外れ,とまでいえないかもしれぬがちょっと待てと言いたい。戦前の日本の共産党員が,また,ファシズム下のドイツ共産党員や,ベトナム戦争時に南の傀儡政権下のベトナム労働党員が,強いられた文書なし状態のなかで,いかに「見解をかくすことを恥とする」という共産主義者としての志を守り通したか,歴史的な事実が主義者としての姿を示す。『朝鮮人強制連行の記録』以後,桐島さんが何を読み,何を考えてきたか,私は直接ききたかった。
色川大吉『自由民権の地下水』(岩波書店,1990年)p.110に,以下のようなくだりがある。
- 人民の戦いは政治的,経済的,軍事的(暴力的)敗北によっては,まだ真の敗北とはならない。
人民の戦いの真の敗北とは,人民が戦ったこと自体に対して自負と正当性の信頼を失った時,すなわち,倫理的,思想的に敗北した時,真の決定的敗北となるのである。
井上伝蔵が息子に残した遺言はただひとつ,「あの事件が国事犯として扱われなかったことが残念だ。どうか俺の代わりに秩父へ行って,同志たちの菩提をとむらってくれ」ということであったという。井上伝蔵と同じく死刑判決をうけ,網走監獄で獄中20年の辛酸に耐えた菊池貫平は,その孫が1933年(この年は,戦前左翼が総崩れし,現在以上に反共の嵐が吹き荒れた!)に堂々たる「秩父暴徒戦死者之墓」という無名戦士の碑を八ヶ岳に向かいあった丘に立て,志の持続を示した。
私はあくまで桐島聡さんを追悼し続ける。 (M)
- 人民の戦いは政治的,経済的,軍事的(暴力的)敗北によっては,まだ真の敗北とはならない。
- 2024/01/30 桐島聡さんを追悼する
1月29日,桐島聡さんの訃報が伝えられました。
悔しかっただろうと思います。ますます反動化が進む日本社会のなかで,桐島さんはどう思い,何を考えていただろうか,と。桐島さんは,私と同い年(しかも誕生日は3日違い!)であるだけでなく,面識こそありませんが,半世紀前は,私はきわめて思想的に近いところにおり,手配写真を目にするたびに,自身の励みにしながら,元気でいるだろうかと気にかけ続けていました。
私は,東アジア反日武装戦線とは,船本洲治さん―黒川芳正さんを介して向き合っていました。日本の左翼運動のなかで,真剣に,日本のアジア侵略(過去から現在に続く)と闘おうとした人たちでした。天皇裕仁の戦争責任を糺し,爆殺を図って未遂に終わった虹作戦は,お前はどうするのかという問いかけでもありました。
東アジア反日武装戦線は,ロシア革命のなかで,ヴ・ナロード(人民の中へ)運動を経て皇帝暗殺テロに走った「人民の意志」派に比すことができます。レーニンの兄,アレクサンドル・ウリヤノフはこのグループに属し,計画の失敗後,抗弁も助命嘆願もせず,処刑されました。私は,1975年7月に船本洲治さんの人民葬で「追悼文」(7月4日)を出してから,私は彼らとは「同じやり方をとらない」と意思表示し,金属加工工場に入って労働運動をやりました。それが,朝鮮・中国人民の抗日闘争につながる道だと思ったからです。
私は,桐島さんと会って,ちがう道を選んだその後について,話しあいたかった。
桐島聡さんは,「人民の意志」派のレーニンのお兄さんと同様,革命家として生涯を全うし,自分の死期を読み切って,名のり出たのだと思っています。
彼らが私たちに残した思想的な「遺産」は,東アジア反日武装戦線公判廷における荒井幹夫さんの「意見陳述」(1976年12月24日)に記されています。ぜひ読んでください。 (M)
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