web悍(思想誌『悍』公式サイト)読者之声
→〔4〕「外部」は権力まみれの「私たち」の真っ只中に未来として賭けられる 太田直里さんに応えて(2010-05-19,小野俊彦)
→〔3〕どう集団として自分を位置づけるか 討論集会の感想(2009-11-28,北原葉子)
→〔2〕深見史氏の文章にうたれた!(2009-05-17,竹薮みさえ)
→〔1〕辛苦了! 創刊号とトークイベントの感想(2009-04-15,朝浩之)
 

どう集団として自分を位置づけるか
11・22討論集会の感想

北原葉子(牧師)

 はじめまして。先日の鼎談に参加させていただいた,北原と申します。
 昨年,野戦之月海筆子の芝居に出会ってから,野戦を追っかけており,鼎談を知りました。

 先日の会,三人の論者の個性がそれぞれなのが,面白く,刺激をうけました。小野氏も触れ,また席上から太田氏も質問していましたが,フリーターまたそこからもこぼれ落ちる人たちがどう集団として自分を位置づけるられるかが課題だと思わさせれました。政治というのは自分を集団とすることだというようなお話もその通りだと思わされました。

 自分の位置は,契約切れが決まっている契約社員のような位置で,非正規雇用の雇い止めの方たちに共感を覚えると同時に,宗教家なので,独自の文脈から資本主義の雇用体制を距離おいてみているところがあります。が,小野氏や崔氏の論考から,いわゆる日本的資本主義の中にいるものが自らを政治化,政治的存在として意識していくことが,いかに抜け落ちているか,痛感させられました。

 政治的にならなければ生存もままならない人たちと政治など関係ないとうそぶける人たちをどう同じ舞台にのせるか? これから取組んでいきたいと思わされました。

 その際,植本氏のような力みのなさ,自然体の感性が,政治的実存を割合はっきりさせている小野氏や崔氏と,多くの集団となることに拒絶感を抱く日本の若者との間の橋渡しになるような気がしました。

 また,小野氏の「みんなフリーターでしょ」という発言と,崔氏が別のところで書いておられた「殺されてきた立場の私たちはマイノリティーと思わされていたが,実は,マジョリティーだったのだ」という言葉が重なり,展望がひらけるような,突破口を示された感を抱きました。これが一番参加しての収穫でした。

 先日は,アンケートを渡しそびれたので,メールで感想お伝えさせていただきました。
 また紙面の他にこのような議論の広場を設けていただけると嬉しいです。

2009-11-28(2009-12-13改)
 

深見史氏の文章にうたれた!

竹薮みさえ(問題主婦)


 悍2号にあった深見史氏の文章にうたれた。母性とはなにか。そこに強く惹かれたからだ。母性。女に与えられる究極の賛辞。あるいは美徳。この文章を読んでわたしもまた母性に呪縛されていると思ったのだ。
 深見氏とわたしはほぼ同年代である。思春期にリブの洗礼をうけた。日本のもののアメリカのものもそうだ。ブラジャーを焼き捨てる映像には鮮烈な印象をもった。まだ古い日本を引きずっていて,日常でもまだまだ女は人間として認められていなかった時代でもあった。わたしが大学に入った当時,女子トイレは一階にしかなかった。なぜか。女子事務員がいるから。学生としての女子を前提していなかったのだ。昭和40年代にしてそうだ。法学部で圧倒的に女子が少なく,合宿にいくと雑魚寝か布団部屋かの二択ということもあった。わたしは雑魚寝を選んだが,男子から布団部屋を申し渡された記憶もある。故郷に帰れば,男尊女卑が日常。モノを考える女など「売れ残る」から学ぶな,考えるな。家事の切り盛りができることが第一。仕事につくのなら教職ならよい。そんな時代だったのだ。その後たとえばベティー・フリーダンが家族を再定義して,個人からコミュニティへという流れがつくられたと理解している。男女雇用機会均等法も男女共同参画社会もその延長上にあると思う。この二つの動きが双手をあげて賛成できるものでないことは言うまでもない。しかし,昔よりはある意味マシになった。すくなくともトイレは増えたのだから。
 だが,その程度かもしれない。せいぜいトイレだ。
 なぜなら,深見氏の友人は亡くなったからだ。
 その人は三人の家族を一人で介護して,家事もし,家族を世話し,地域活動もした。そしてその三人を看取ってから,自分の趣味に精をだし始めた矢先,58歳という若さで亡くなったという。

 リブが一歩を踏み出して,フェミニズムがそのあとを継ぎ,政治課題として分析した。おかげで「フェミコード」なるものが出来て,わたしが職場でお茶汲みしたりすると男性諸氏が恐縮したりする。だが,せいぜいそれだけだ。
 深見氏の友人は亡くなった。その死をすべての人が悼むかもしれないが,その死を,傷みをもってふりかえる女たちが,言葉をもってつながっているとはいいがたい。
 わたしは肩書きとして「問題主婦」を名乗っている。問題主婦とは,生み育て看取り,家事をし,仕事をし,社会的活動をし,豊かな趣味ももち,そのすべてを余裕をもってこなすことである。それが男女に関わらず,人間としてあるべき姿だと思うからだ。運動は日常そのものであるとそう思い定めてきた。だが,最後の「そのすべてを余裕をもってこなす」ができない。もしそのすべてをこなしたら,深見氏の友人のように死ぬのだ。あるべき姿を実現したら死ぬ。それはなぜか。それほどその姿を分かち合えていないからである。夫は,子どもは,隣人は,友人は,一人の女がそれほど苦しんでいること,あるいは苦しんでいることに無自覚であることに,なぜ気付かない。なぜ揺さぶってでも自覚させないのか。
 その意味で,男女共同参画はまったく現場にとどいていない。
 いくらフェミニズムが正しい仕事をしても,いくらリブをきちんと学んでも,現場はおいてけぼりである。

「女たちは眠っているのか」
この言葉は,ある集会で澤地久枝氏が叫んだ言葉だ。
 そうなんだろう。隣の女を見殺しにして。介護も教育も食事もなにもすべて行政の設定した市場に売り渡して,そのサービスを買うための賃労働者に成り下がり,必死に身を削りながら「眠っている」のだ。
 現場に言葉はとどいていない。

 わたしはその現場で声をあげてきたと思う。保育所で学校で役所で職場で言うべきことをいってきたと,ある程度自負している。だが,届けようとしていたのだろうか。今にしてそのように思う。わたしは言うべきことを言おうとした。それは誰かある人のためであった。それなら,その人とともに声を上げるべきであった。わたしはそれを怠った。わたしがやる方が簡単だからだ。時間に追われ,生活の流れのなかで,わかった,わたしがやるからと「解決」してきた。それはもちろん一時しのぎだ。そして,一時しのぎであることを忘れる。物事が解決したかのように思ってしまう。わたしさえがんばれば良い。母性はそのように使われる。多くの人の声をきき,それを返してきたが,わたしは助けてほしいとは言ってこなかった。
 これが母性の呪縛だ。母性は究極であって,最後の砦であって,無限であるかのように想定されている。
 眠っているものと呪われているもの。最悪の組み合わせだ。活動家女は活動家男に女房ひとり動員できない男が何をいうとうそぶくが,活動家女だって男や家族と共有すべきものを共有しているのだろうか。あるいは,隣の女と語り合えているのだろうか。隣の女を「バカ」だということは,現在の文脈において「バカ」ではないのか。

 わたしは昨日はじめて助けてほしいといった。
 まわりの女たちは,おずおずと一歩踏み出した。わたしのようにかけ声をかけて威勢良く廻りに見せびらかしながらではないだろう。しかし,何人かで一歩をふみだした。見送るわたしをふりかえりながら。

 共感をもとめて発せられる言葉はB級だと,そのとき思った。
 言葉は通じない人にむけてこそ発せられるべきである。
 それを発することができないというのは,その言葉を支える具体がないからだろう。ならば作れよ。助けてほしいといえばいいのだ。お高く概念のなかにこもっていないで,遠くの著者よりも近くの愚かな女と関係をつくることなのだ。著者はわたしに触れてこないのだから。

 その意味で深見氏はわたしの隣人である。

* →ブログ「竹薮みさえの『ざ。問題主婦』」

2009-05-17
 

辛苦了! 創刊号とトークイベントの感想

朝浩之(編集者)


前田 様

いよいよ第2号発刊ですね。

まずは辛苦了! おめでとうございます!
遅くなりましたが,創刊号の感想を少し。
「腐す」方向にも流れますが,この真意はエールを送りがたいがためですので,ご了解下さい。

まず「発刊宣言」と内容の落差に驚き。前者については以前に感想を送ったと記憶しますが,比喩的に言えば直線的であるのに対し,内容は螺旋的――平たく言えばバラエティに富んでますね。

巻頭のフォトページはわかりにくかったなー。特集タイトル(テキスト)とフォト(画像)のコラボと解釈すればよいのでしょうが,2,3点でなく,あれだけの点数をほぼコピーなしで提示するのは無理があったのではないでしょうか。

つづく唐と津村は,さすが「役者」,さりげない軽い文章ですが,それなりに読ませてくれます。津村についてはあの当時以降,ほとんど読んでませんから,彼の現状が理解できたことは収穫でした。

佐伯・絓・鵜飼・米谷の討議は実質的な巻頭になりますね。それなりに面白くはありましたが,最後まで拡散の方向で,的が絞りきれなかったように感じます。絓さんはいちおう司会役なのでしょうが,しゃべりすぎる司会はだめですよ(発言内容が悪いという意味ではありません)。鼎談もなかなか難しい,4人は多すぎたのではないでしょうか。

ふとらの文は巧いと思いました。読み始めは,えーっ,そんなこと書いてどうすんのと思いました。この種の懐旧談は独りよがりの嫌らしい文になりがちと思いますが,依頼の仕方がよかったのか,何を伝えたいのかよく理解できます。

それに比して,石川は……。1/3まで読み進めても,何を言いたいのかまったく理解できません。私に読み込む力量がないのかと,最初に戻って読み直し,我慢して最後まで読みましたが,途中で腹が立ってきました。作品論? 作家論? キーワードらしいものがやたらちりばめられていますが,バラバラでどこにも行き場がない。

巻末の翻訳は今号の中で,私にはいちばん圧巻だった。

第2号に期待します。


ついでながら,創刊記念トークイベントの感想も少し。

精力的に活動されている前田さんを前にしては愚痴になってしまいますが,日銭稼ぎに追われ,読書量も落ち,私の悪い頭はいっそう悪くなってきているようです。

そんな中で,トークセッションはそんな頭に刺激を与えてくれましたので,誘っていただいたことに感謝しています。

会場が想像を超えて盛況だったこと,しかも若い人が多かったことに驚きました。

質疑応答もそれなりに充実していたのではないでしょうか。東大生には勉強しすぎじゃないの,市議(区議?)にはもっと勉強してこいよ,とかも思いましたが,私は若い人たちには寛容です。あのような場に参加しようとすること自体に期待をもちたいと思うのです。

それに比して約1名は……。論旨不明の「自己主張(宣伝)」をするばかりといった点は,団塊の世代よりはだいぶ若いと見ましたが,彼らと同じですね――一般化するつもりはありませんが。発言を封じたい衝動にかられてなりませんでした。思うに,彼らは寂しいだけで群れているだけなんだと思います。そんな時間があったら,自戒の念を込めて言いますが,自ら,何かをやる,何かを考えるべきだと思うのです。内輪で群れているぶんにはマスターベーションですから害はありませんが。公の場に出てきて愚にも付かぬことをしゃべらんで欲しい。黙って聞いてろって。

千坂さんのことはあまりよく知りません。

若干の論考も読みましたが,今回のトークだけではよくわかりません。右か左かはもはや価値基準にたりえないという点は共感しますが,核をめぐる発言などには違和感を覚えてしまいます。比喩的に言えば,たとえ終焉が目前に迫っていようと,思想は「健康的」であらねばならないと私は思っているからです。

「革命戦争・全共闘から大東亜戦争」とはまた飛躍したタイトルだなと思いますが,考えてみれば,出口のない今日の状況にあって,これほど情況を突く,インパクトのある言葉はないと納得します。秩序に対する“叛”ということでいえば,全共闘運動も大東亜戦争も革命であったと。これを敷衍すると,ソ連の戦時共産主義は秩序維持という意味で革命であるはずはないし,中国の文革は秩序維持と反秩序がない交ぜになっていたいた点で未だ評価を定めえないということになるでしょうか。私の現在の問題意識から言えば,戦争に革命も反革命もあるか,戦争は戦争だ,ということになります。人類にとっての戦争とは,政治領域であれ,文化,科学領域であれ,発展史観とともにあった。しかし,もはや「発展」に拠る未来はないのだと思うのです。

2009-04-15

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