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(つづき)
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惹き起こされた煽情的なJIS批判――“漢字を救え”現象
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ところが,ここへきてJIS漢字批判の大合唱,“漢字を救え”現象とでもいうべき騒ぎがひきおこされた。
昨年10月には,日本文藝家協会(江藤淳理事長)はJISでは「打ち出せない漢字があり,また所謂表外字についても何等字体の基準が示されていない」「国際的規格統一に際し,外国の有力私企業等の恣意によって,いわれのない字数の制限,字体の改変等を余儀なくされるおそれもなしとしません」として「今後の言語政策が誤りなく進められるよう」という要望書を国語審議会に出した。さらに今年の1月22日に同協会は「漢字を救え! 文字コード問題を考えるシンポジウム」を開催,前後してマスコミ各紙はあいついで“漢字を救え”キャンペーンを繰り広げた。私の手元に収集したものだけで二十数紙誌,しかも奇妙なことにこれらは論旨から挙げる事例(ワープロやパソコンでは山月記が文字化けする!)まですべて同じだった。文芸評論家としてはすでに引退したかにみえた秋山駿までが狩り出され,ユニコード反対の感情論にあおられ,「文字コード国際化のワナ」と題して「父親の世代から聞いた大正時代の軍艦のこと,欧米の列強によって日本が保有する軍艦の数が制限されたこと,などを想起した。あれの再来だろうか? 今日も同じことが繰り返されているのか」などと書く始末(*10)。かくして,政治的立場のちがいはのりこえて,一部の新左翼にいまだに人気のある秋山駿から文士を自称する右派の論客・江藤淳までが手を組んで“漢字の危機を救え! 大日本文学報国会”がたちまちにしてできあがった。
日本文藝家協会のこの精力的な動きを主導しているのが同協会電子メディア対応特別委員会(島田雅彦委員長)と文字コード問題小委員会(吉目木晴彦委員長)で,吉目木晴彦は小田原出身だとの縁で地元の『神奈川新聞』は「文字を排除したら文化滅ぶ」と題した煽情的な「社説」(*11)を載せた。かくして社会現象としての「JIS漢字批判」は,文字組版などの話題やメディア論などとともに最近の新聞や雑誌でしばしばとりあげられるテーマとなり,文字コード問題は一種のブームとなった。
JIS漢字を開発し改訂してきたJCSもJIS漢字を増やすと言って作業中,JIS批判の旗手・文藝家協会はJIS漢字では足りないという。ならばどの字を増やすか,もう少し前向きなやり取りができそうなものではないか,と思ったのだが,どうやらこれは漢字を増やすか減らすかという「わかりやすい」対立ではなさそうだ。なぜなら孫引きされて繰り返される「JIS漢字批判」はどうやらJIS規格すら読まずになされたようだし,これを報じた大方の新聞記事も対立する双方に取材した形跡すらないようなのだ。JIS改訂作業にもかかわる池田証壽はJIS漢字をめぐるさまざまな議論について,「研究の世界では,先行研究を十分に参照して論を展開せよというのがイロハなのですが,どうも先行研究をろくに参照せずにいいたいことをいう流儀があるようです。そういうのを読むとなんとなくもやもやとして自分の仕事の能率もあがりません」(*12)という。まったくそのとおりで,誤解ならいつかは解けるし,対立するどちらが正しいかは先学につけば自ずと明らかになることであり,だがそれ自体は本稿の中心テーマではない。私の関心は,なぜ先行研究とは切り離されたところでJIS漢字批判が流行したのかの考察にある。“漢字の危機を憂える文芸家”がおおいに心を動かされ,“社会の木鐸をもって任じるジャーナリスト”がおおいに使命感に駆られた背景にはいったい何があったのだろうか。
この社会現象を「莫迦なブンシ(文士)と無智なブンヤ(新聞記者)の合作三文芝居」と断じたとしても(そのとおりだが!),何ら問題の解決にはならない。いたずらに“漢字の危機”を煽り立てるがその根拠として示される事例がみな孫引き(何万字もあるという漢字を論じるのに,なぜ「骨」や「雨月物語」「山月記」ばかり挙げられるのか)というレベルのJIS漢字批判のイメージがどういう必然性をもって論理を駆逐したのか,マスコミが横並びで宣伝を広げたのはなぜか,が社会現象として考察されねばならないのである。
宣伝をそれまでのいかなる政治的,経済的,宗教的運動さえ成しえなかった域にまで発展させたヒトラーは,「宣伝は常に大衆にだけ向けねばならない。それは常に感情に作用するように向けられねばならず」「獲得すべき大衆の数が多くなればなるだけ,宣伝の理論的水準は低めなければならない」と教えた(*13)。ファシズムの本質を強制と規定したとしても,一時的にしろ強制され騙されたのはなぜかの説明にならない。「莫迦な文士と無智なブンヤの合作三文芝居」が何ゆえに俗耳に入りやすいのか,何ゆえに左翼も右翼も含めてたやすく翼賛団体化してしまうのか。文字のコードと文化のコードにおけるボタンの掛け違えがあるのではないか。
事の本質はいわゆる国語国字問題ではない。怒涛のJIS漢字批判キャンペーンに共通する論旨をみるかぎり,発信源は文藝家協会であり,その背後には,世界のあらゆる文字を扱えるようなコンピュータの枠組みをつくろうという東京大学と日本学術振興会の共同プロジェクトによるフォントセットGT明朝(東大明朝)の計画があり,さらにその背後に,無限の数の文字を取り扱うという坂村健のトロンコードの開発プロジェクトが存在するという構図が明らかになってくる。今年初めに平凡社から出た『電脳文化と漢字のゆくえ』という本(*14)は批判者たちの「綱領」を総まとめした文藝家協会のプロパガンダ本である。
結論を先取りしていえば,問題は「国語国字問題」でも「言語問題」でもなく,「技術と人間の問題」ではないか,と私は考える。
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漢字の危機を呼号する阿Qたちが告白する「文芸の危機」
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吉目木晴彦は,問題点は大きく二つだといっている。「第一に,収録できない文献や文書が発生していること……あるメディアにおいて特定の文字を含む文献や文書が流通上,制約を受けるというのは異常な事態」「もう一つは,今まで印刷技術でなら当たり前にできた文字伝達ができない」(*14)
島田雅彦も「活字のようにあらゆる文字が使えるというわけではない」ことを次のように批判している。「使えない漢字はたくさんあります……活字として一度でも使われたことがある文字というのは,それは文化の遺産のようなものなのだから,すべて電子テキスト化できなくてはならない。古典は,その後活字に印刷されて図書館に収められたりしているので,図書館の原則として言えば,原典を一字一句替えてはならないという大原則もあります。そうするとより完璧な文字コードというのは求められなければいけない」(*15)
問題はどこにあるのか。原稿がワープロで思うように書けない,インターネット上で流通させるときに文字が化ける,電子テキスト化するときに使えない漢字がある――というのだ。
しかし,書けないといっているのは原稿であって作品ではないのではないか。原稿と作品の混同についてロジェ・シャルチエ(*16)を援用しつつ鈴木一誌は「やや強引に解釈すると,書かれたものの意味は,まず原稿が書かれた段階,第二に印刷された段階,読者によって読まれた段階というように,作品は三段階にわたって意味が発生する」(*17)と指摘している。まったくそのとおりで,書かれた原稿が印刷物になるためには,デザイン・組版・印刷などによる転生,変貌を経るわけであり,小説が本として出版されるためには,原稿は編集者によって,次に組版者によって,意味が解釈され,幾度かのキャッチボールを経て,作品として,仕上げられていく。現に文字組版業者としての私の毎日は,同僚からの「これ,何という字?」という問いに対する答えと,私自身が読む(解釈する)ことができない文字列について,編集者や執筆者にきいたり,字典や辞典をひいたりすることでかなり時間を費やされている。
そこには原稿のコードのやりとりが介在している。活字でも,写植でも,DTPでも条件は同じである。それゆえたとえば,ふつうはなかなか読めない作家の悪筆,癖字であっても担当の編集者や文選工は読めるということがあるのだ。原稿に書かれた文字による伝達は,話し手(発信側)と聞き手(受信側)とで共通確認されたコードに基づくメッセージを“送信”しているのである。情報交換(コミュニケーション)がうまく成り立つためには,話し手と聞き手がメッセージの作成と解読のときに利用するコードが同一であることが前提である。しかし,このような理想的な条件は必ずしも満たされているとは限らない。活字組版でも写植でもDTPでも,いわば「異なる言葉」の話し手同士である場合があり,だからこそ互いに聞き返したり,旧字体でとか特定したり,校正という「対話」を重ねるのである。
では,“漢字の危機を憂える文芸家”は何に対して不満を表明しているのであろうか。意思の交通を妨げているのは,文芸家たち発信側なのか,受信側つまり印刷会社(あるいは読者?)だといっているのだろうか。吉目木や島田の言い分はそのどちらでもなく,ワープロやコンピュータが悪いといっているようである。これはずいぶんおかしなことである。
活字の場合で考えてみよう。文芸家自身が自分で活字を彫ることはまずないだろう。だから無い活字は既製の文字とはちがう「どの字か」を指定するだろう。組版と印刷の現場ではその文字がほんとうに無ければ,そして必要なものだと了解しあえば,作字するだろう。ただそれだけのことである。活字にもその場でだけ彫って組んだ後,使い捨てにされるものもある。電算写植では,外字A・外字Bにコード化されているもの,モノール登録といって特定の出力機でのみのいわば外字登録するもの,冒頭のエピソードで紹介したようなもう二度と使わないものは切り貼りして使い捨て,と何段階かに分かれており,すべてがコード化されているわけではなく,もともとすべてをコードで解決しようなどというのは現実にあわない。
漢字の数は有限なのだろうか。仮名ならば重複なく網羅した文字セットとして古くから「いろは歌」などがあったが,数が有限でありえない漢字の場合はたとえば「千字文」のように一定の数で区切った文字セットとしてしか存在しなかった。世の中に実際に存在する字形は二つとして同じではないが,サイズのちがいや書体のちがいは本質ではないとして捨て去られる。包摂規準とはどこまで捨てるかという精度のことである。
吉目木晴彦をはじめとする現代の文芸家たちは,ワープロで原稿を書き,ファックスで原稿を送るようになって,要求をワープロやパソコンという「物」にぶつけるようになってしまったのだろうか。物との関係にみえるが実は人と人の関係であり,忘れ去られてしまっているのは文芸家たちの作品を世に送り出すときの共同作業者の存在ではないだろうか。「文化はさまざまな言語の多層性から生まれる」といい,手書きだと公言する島田雅彦が,まさか文献や作品の保存をデジタルテキストの保存に矮小化しているとは思わないが,逆にテキスト至上主義から解放されているようにも思えない。文字コードをどんどん増やさないと文献のデジタル化が,すなわち文化を守ることができないとの意見に対しては,原本どおりの内容を出版するための翻刻とは解釈であり,ひとつの原本にただひとつの翻刻しかありえないかのごとき主張は狭量であること,を豊島正之の論考は明らかにしており,これはJIS漢字批判の基礎知識として必読である(*18)。
田村毅は「活字の時代には印刷所に無い活字を作らせてまでも,出来る限り忠実な校訂版を作成したはずである。電子文字がないからといって校訂版の水準を下げてよいものか」(*14)という。吉目木晴彦にいたっては「不足する文字や字体があった場合,そのつど,必要に応じて活字を作ればよく,実際に印刷会社などではそうしています」と書きながら「今まで印刷技術でなら当たり前にできた文字伝達ができない」(*14)と不満を表明する。
活版時代にできてコンピュータではできない,というこの思い込みも広く流布しているが,組版修業をコンピュータによる活字組版から始めた私などは「活字印刷対コンピュータ」という世間知らずの図式には赤面させられてしまう。そこでは活字組版はたしかにコンピュータによってなされていたのだ。入力したデータは穴の開いたテープとして射ち出され,キャスター(自動鋳造機)から活字が出てくる。これを組み上げ,新聞印刷の輪転機にかける版の元になる大組をつくるのだ。
魯迅に「賢人と愚者と奴隷」(1925年)という短編がある。「とかく人に愚痴をこぼしたが」る奴隷は賢人から「いまにきっとよくなる」と慰められる。やがて奴隷は小屋の四方に窓もないと愚者にこぼす。愚者は泥の壁を壊しにかかる。びっくりした奴隷は主人に叱られると泣きわめき,愚者を追っ払う。奴隷は「強盗が家を壊そうとしたので追っ払いました」と主人に告げる。褒められた奴隷は運がよくなると言ってくださったのは先見の明だったと賢人に感謝する,という話である。
「窓がない」と愚痴る民衆のなかに,魯迅は阿Qと同様の奴隷根性をみた。「漢字がでない」と愚痴る文芸家たちには,「とかく人に愚痴をこぼしたがります。そうすれば気がすむし,またそれしかできない」(*19)という献辞をおくろう。危機に瀕しているのは漢字などではなく,書くほどの内的欲求,動機と志が失せてしまった彼らの文芸,文学そのものなのではないか。文学を救え!
なぜ日本人はかくも幼稚になったのか,「漢字を救え!」シンポジウムを司会した福田和也に聞いてみたいものである。
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