| 連載:滴水洞 007
暴力論3 国際主義は即暴力:滝田修さんの提起
2006年08月17日01:37
前 田 年 昭
編集者
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「暴力考」で【「いちばん大切なこと」=暴力(軍事)力量の形成】と強調した滝田修氏は『情況』70年9月号で次のように指摘していた〔『ならずもの暴力宣言』所収,芳賀書店1971,pp.256-257〕。
【我々はかつて一〇・八以後の過程で,国際主義と組織された暴力という事をいってきた。これは,理論的によく考えていくと,正しくなかったばかりか,我々の体質をいみじくも表現してきたのである。ぶっちゃけて言えば,国際主義が政治的思想的な質をもったものが,暴力を組織すると言ったのだ。国際主義の質で組織するとは,何ということを言うのか。ちがうのだ。国際主義というのは暴力なのだ。逆は必ずしも真ではないが,国際主義は即暴力である。暴力のない国際主義なんか何処にある。国際主義というのは,ブルジョアジーを見てみろ,戦争だろ。奴らの国際主義の究極的かつ根源的な形態は,世界戦争,世界制覇だ。奴らも「全世界を獲得する為に」と思っているのだ。奴らの国際主義は,国際侵略主義であり,民族主義は,民族抑圧主義なんだ。それは,暴力に,戦争に,究極的な実現形態を見出す。我々は,少なくとも,ブルジョアジーを鏡として自らの姿を写すスベを身につけなければならない。我々にとっても奴らと同様,国際主義は,国境を越える国際主義のココロは戦争ではないか,間接侵略でしょ,戦争なのだ,軍隊なのだ。国際主義というのは組織された暴力即ち軍隊なのだ。何か同盟があって,国際主義の質をもった賢い人がいはって,そいつらが暴力を組織するという,濡れ手に粟のような変な話とは違うのだ。先ず暴力があって,先ず軍隊があって,これがやるというのが国際主義である。違うんか。最初に触れたイージー・ライダーのココロは,このことである。自由について語るのは勝手や,誰でも許してくれる。国際主義について語るのは何ぼでもエエ,頭の中で国境を越えるのだったら,何ぼでも越えはったらよろしやないか。しかし,ハイジャックでほんまに国境を越えたらアカンという訳や。……国際主義というのは,宣伝運動でもなければ思想運動でもない。この程度のことを今になって確認しなければならんのは,我々を含む日本の左翼総体のインポテンツを語って余りあろう。〔中略〕軍事力量から疎外された国際主義を,その審判者たるべき地位を客観的に保証された在日朝鮮人が,どうして信用するであろうか。軍事力量の形成を抜きにして,在日朝鮮人にどないして義理が立つと言うんや。絶対に立たない。我々に,国際主義的軍事的力量がないから,在日朝鮮人が,半殺しの目にあっているのを,座視しているのだ。在日朝鮮人を暴力的に迫害する「日本人」住民・右翼に対して,我々日本人が暴力的に敵対し,在日朝鮮人を防衛することが,つまり言い換えるなら,日本人と日本人との暴力的対決によって日の丸国家秩序を揺さぶることが,そうした暴力へと深化することが,国際主義軍事力量の形成の一歩とちがうのか。】
民族排外主義か,それとも国際主義か。崇米IT革命か,それとも文化大革命か。――40年前には問題はこのように立てられていた。情けないことに,わが日本の反権力運動は以後,ずるずると後退を続けている。しかし,問題は依然として,同じように立てられているのではないだろうか。
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