| 連載:滴水洞 006
暴力論2 羽田の先駆としての善隣闘争の意義
2006年08月16日13:47
前 田 年 昭
編集者
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日本の新左翼運動は1967年の佐藤訪ベト反対羽田闘争を「10・8」としてその意義を高くたたえる。同年12月に開催されたブント(共産同)の集会は羽田闘争の総括を「組織された暴力とプロレタリア国際主義」として提起した。蔵田計成『新左翼運動全史』流動出版1978は「この日こそは、六〇年安保闘争以降、混迷を続けてきた革命的左翼がふたたび衝撃的に日本階級闘争の戦列に浮上してきた日として忘れることのできない日となった」とし、すが秀実『革命的な、あまりに革命的な』作品社2003は「ある意味では六八年の前哨であり、ニューレフトが大衆的にヘルメットとゲバ棒スタイルで登場した最初である」と評している。
だがしかし、国際主義という側面からみてもゲバルトという側面からみても、日本の新左翼運動がスタイルを一新したのはその7か月前、1967年2月28日-3月2日の善隣闘争にあったのではないか。文化大革命の中国から日本への波及としてあったこの闘いで、日本共産党を名のる代々木修正主義は、後楽寮生をはじめとする日中両国青年学生に瀕死の重傷4名を含む20数名の重軽傷者を出すという流血をひきおこしたが、これに対する武装自衛の闘いである。当事者からの総括があまり語られないいま、ここでは問題提起のみにとどめておく。
いずれにしても、日本文化大革命としての日本全共闘運動は、日共修正主義に対する積極的批判、反日共諸党派に対する消極的批判として存在した。修正主義に対する批判は、その平和共存路線への批判、つまり必然として暴力革命の主張であった。反日共諸党派に対する批判はおおかたはその政治主義や街頭主義と呼ばれるものへの批判としてあったから暴力への批判ではなかった。
事実、私も当時は、新左翼と全共闘のゲバルトの強さには支持と憧れを持っていた。全共闘では銀へルの日大全共闘、党派ではモヒカン(中央の白を両側の赤で挟んだヘルメットはこう呼ばれた)のML派の、向かうところ敵なしの強さには拍手を送っていた。その暴力賛美は、それぞれの背景にある大衆性、道義性への支持でもあったのではないか。
もちろん以降、四半世紀にわたる「内ゲバ」の歴史、とりわけたしか数年前だったか、解放派内での「内ゲバ」で、地方の駅で50歳を過ぎた中年活動家が包丁で切りつけるという陰惨な事件が報じられたときには、彼らが何のため誰のために生きてきたのか、とても痛く心苦しい思いにさせられたことは忘れられない。
繰り返すが、文化大革命を振り返るときに、そこから暴力性を負の側面として取り除いて理想主義や積極面を取り出そうという試みは思想的には無意味である。第一、歴史的事実に合っていない。「悲惨な」暴力性のなかにこそ、文化大革命の魂があり、本質があったのではないか。
この暴力という問題を総括する視点として、フィクションでは、雑賀孫市に率いられた雑賀鉄砲衆による信長への抵抗と闘いを描いた傑作小説『尻啖え孫市』司馬遼太郎1964(ちなみに、晩年の駄作とちがって初期は面白い)、社会から隔絶された囚人たちの解放の祝祭を描いた傑作映画『暴動島根刑務所』中島貞夫監督1975を、また歴史学では、近代移行期における民衆運動の変化と「悪党」という恐怖を描いた、須田務『「悪党」の一九世紀』青木書店2002、を挙げておく。
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