| 連載:滴水洞 003
むほんの権原はどこにあるのか
2006年08月02日13:36
前 田 年 昭
編集者
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前回紹介したBSドキュメントでは,黒龍江省省長に対する批判内容として髪型が毛主席に似ているのは政治的野心の表れ(!)というものとともに私生活や道徳に批判が及んだという。私は連合赤軍のリンチ事件を想起した。少なくない人たちも想起しただろう。しかし私が想起したのは,肯定的に!である。全共闘運動が提起したのは,思想というものはその人が何を言ったか(書いた文章)にではなく,その人が何をやったか(行動,生活)にあるということだったからだ。
個々の「暴力」については具体的な事実にもとづく分析が必要だろう。しかし文化大革命に批判的な側からしても,批闘大会で糾弾された者とは「彼らの本当の犯罪は,権力や知識,富をもっていることだった」〔李振盛『紅色新聞兵』p.73〕のである。
今後,もっともっと文化大革命のさまざまな事実が明るみに出るだろう。しかし,社会を牛耳るのが「権力や知識,富をもっている」階級でありつづけ,そのなかで個々の文章を書く者はたいていは「権力や知識,富をもっている」者であるから,文化大革命を非難し,糾弾する文書のほうが圧倒的であろうことは驚くに値しない。
文化大革命の何が,中国の,そして日本を含む世界の若者を熱狂させたのか。そこに何があったのか。その人が何をやったのかにおいて思想を批判すること,これは間違っていない。「権力や知識,富をもっている」者を批判すること,これも間違っていなかった。それまで永年,「権力や知識,富をもっていない」者は,持たざる者であるがゆえに,ただただ沈黙を強いられてきたのだから。
この正しさは,大いなる行き過ぎを伴って歴史を確かに動かした。だからこそ,現代日本社会にもその「後遺症」が見られるのではないか。「被害者の声」絶対主義である。通り魔から交通事故まで,さらに「拉致」事件まで,被害者はあたかも絶対正義であるかのようにふるまう。犯人を吊るせ!即刻死刑にしろ!この痛みがお前らにわかるか!と,全国各地でふきあれている。容疑者とされた人の担当弁護士までが「人非人」呼ばわりされる異常事態である,と私は感じている。
だが,この傾向は批判するには覚悟が要る。相手が「被害」当事者であることを声高に主張すればするほど,聞く側は黙らざるをえないからだ。「被害」に耳を傾けよ,ということは全共闘が主張し,紅衛兵が訴えたことでもあったからだ。だが,異論を封じておいて権力をかさに主張される現状には,私はどうしても異議あり!と言わずにはおれない。被害者は加害者に事実究明と謝罪,原状回復を求める権利がある。「復讐」する権利がある。しかし,なぜ国家という権力に代理復讐としての「死刑」を求めるのか。
文化大革命で「権力や知識,富をもっている」者を批判したことは間違ってはいなかったのだ。BSドキュメントで「紅衛兵たちは高級幹部の子弟で,後ろ盾があったから造反できた,そうでなければ庶民では省長に歯向かえない」という証言があったが,ここに残された課題があったのではないか。こんどこそ,庶民の本物のむほんを!
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| (おわり)
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