繙蟠録 I & II
 

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繙 蟠 録 II 2020年3月

2020/03/25 競争原理批判(6)――労働と教育の結合およびその批判の歴史的な検討

公教育は、歴史的には、工場と共に生まれた。カール・マルクスは、19世紀半ばの苛酷な婦人労働・児童労働(それはもう酷いものだった。『資本論』第13章やエンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』は優れたルポルタージュでもある!)を直視しながらも、その酷薄な現実の彼方に、将来のあるべき教育を見通したのである。マルクスは次のように書いた。

将来の教育――社会的生産を増大するための一方法としてのみならず、全面的に発達した人間を生産するための唯一の方法として、特定の年齢以上のすべての児童のために生産的労働を知育および体育と結びつけるであろうところの、将来の教育――の萌芽は、工場制度から発生したのである。〔長谷部文雄訳『資本論 Ⅰ』河出書房新社、1974、p.386〕

 マルクスは、苛酷な婦人労働・児童労働を規制する工場立法への社会運動への支持にとどまらず、その先に「生産的労働を知育および体育と結びつける」将来の教育の萌芽を見ていたのである。
 半世紀前の全共闘運動では、産学協同路線反対が主張された。当時、アメリカによるベトナム侵略戦争での日本の関わりが問題にされ、朝鮮戦争以来、軍事大国アメリカからの軍事特需で「復興」を遂げた戦後日本のあり方自体が問い直されたのである。この問い直しは、学問や科学技術自体は無色透明、中立で、使う人によってどうにでもなるという従来の学問や科学技術に対する見方に対する根底的な批判だった。すなわち、誰のため何のためという目的意識が、その学問や科学技術の内容を決定づけるという見方、考え方である。全共闘運動の思想的な立場はここにあった。
 学校はどうあるべきか。誰のための教育か、何のための学問か。全共闘運動は、大学や高校、中学で、評価はあっても評点(点数付け)によるテスト制度が、人を差別し振り分け振り落とすためのものになっている、と批判した。果たしてこのままでいいのか。点数で成績をつけ、単位を認定し、ふるい落とすことは、本来の、教育を受ける権利を阻害しているのではないか、と。成績評定権、単位認定権を排他的に握っている教師の立場が問われた。
 テストを中心にした授業をストップする停課革命が闘われた。日本では東京大学の入学試験が1年間中止(1969)され、中国では文化大革命で、大学の入学試験が3年(1966ー1968)乃至10年中止された。文化大革命の中核は教育革命であり、中国における全共闘運動ともいえた。

【参考】大塚豊「文革期中国の大学入学者選抜に関する一考察 教育と労働の結合の観点から」大学論集 (8), p111-128, 1980, 広島大学大学教育研究センター 〔つづく〕

2020/03/24 競争原理批判(5)――公教育批判、本源的権利としての教育を受ける権利を!

かくして公教育は生まれた。この経緯は、近世までの寺子屋とはちがう。学校は、社会が必要とする児童の訓育のための、専門家(教師)の組織として生まれたのである。これが、評点の権限(成績評定権、単位認定権)を握った教師による選別システムとして機能し、戦後も途絶えることなく続いている。日本とほぼ同時期に、近代にはいった中国、朝鮮でも「科挙なき科挙」は続き、現象的には日本以上の、学歴競争社会となっている。現実は、先に(3)で紹介した遠山―勝山論争で遠山啓が指摘したとおり、「今の学校は点数を軸として回転しています。テストはひんぱんにおこなわれ、そのテストで一点でも多くの点数をとろうとして、生徒も親も先生も血まなこになっています。そしてこの点数は学校を卒業した後の人生にも何らかの影響を及ぼす仕組みになっています。〔略〕いまの日本の学校は小学校から大学まで東大を頂点とする単一のピラミッド組織に組み込まれていますが、そのピラミッドを構成している一つ一つの積み石は、せんじ詰めれば点数であり、〔略〕「テストの点数は人間の価値を測る絶対的な尺度である」という等式(点数=人間の価値)にほかなりません。」[註1]という状況である。
 これに対する批判には、どのようなものがあっただろうか。
 「ブルジョア私教育に対してプロレタリア私教育を」(林麟次郎『帝大解体の論理』西日本出版社、1969)という主張は、近代初期なら有効だったかもしれない。なぜなら、近代初期は金持ちがカネを出して教師を雇って、子供を学校に行かせるということで、私教育の自由はブルジョアの自由だったからだ。プロレタリアートは当時まだ誕生したばかりでそのような力を持っておらず、「プロレタリア私教育」をもって公教育に代える力量はなかった。「ブルジョア私教育に対してプロレタリア私教育を」は、歴史の発展段階に合致しない主張である。
 また、「脱学校(非学校)」(イヴァン・イリイチ『脱学校の社会』東京創元社、1977)という主張は、学校という制度的な教育システムへの批判というより、独学を取り戻すという個々人の向き合い方やフリースクールになってしまう。といってしまえば、雑駁に過ぎるか。イリイチ自身の動機には「制度化」批判が込められていたのだが……。
 いずれにしても、私たちはまだ、公教育に対する根底的な批判をなし得ていない。歴史に即した、選別教育システム=学校制度批判が求められる。
 19世紀半ば頃から労働者階級が増大し、カネのない労働者にも教育を受ける権利があるという社会運動が高まり、やがて現代の《生きる権利》を保障する公教育制度となっていった。
 ひとは誰でも教育を受ける権利がある。なぜ、教育を受ける権利が保障されなければならないのか。「ひとは社会にでたら労働する権利があり、これこそが基本的人権の重要なものであるが、それには現代の生産活動の水準にみあった社会や自然についての知識が必要である。それがなければ、労働する権利がそこなわれてしまう。自分の個性にあった職業を自分で選ぶことなどはとてもできないだろう。したがってまず、すべての生徒がこの基礎的な学力を身につけられるようにすること、そして、その過程で、ひとりひとりの生徒が自分の個性と能力がどういう方向にいちばんむいているかを自分で発見し、それを育て伸ばしていけるようにすること」[註2]が必要だからだ。

 [註1]『朝日新聞』1979年1月17日付、連載いま学校で1186
 [註2]武井昭夫「教育を受ける権利」〔初出:『解放教育』臨時増刊号、1976年5月15日掲載、『創造としての革命』スペース伽耶、2011年11月 所収〕
〔つづく〕

2020/03/11 競争原理批判(4)――灘高全共闘運動は競争原理批判の闘いだった

〔承前〕最終回を「同感」という言葉でむすんだといっても、遠山―勝山論争は何ひとつ意見の一致をみたわけではなかったことは明らかだった。点取り競争という競争原理によって、公教育が人間の振り分け、振り落としによる差別選別制度になっているという認識、およびそのよしあしについて、両者は真っ向からの対立を示した。
 この対話の9年前、1970年に、灘高校では、競争原理そのものへの問いかけを含む闘争があった。68ー69年に昂揚した学生たちの全共闘運動は敗退に向かいつつあった時期で、“一周遅れの全共闘”などといわれたが、私も含む当事者にとっては、いずれ衰退、敗北に向かうことがあろうともやむにやまれぬ闘いであった。
 日録をたどる――。

  • 1970年6月5日、灘高校(兵庫県神戸市)生徒会評議会、「日米安保条約について考える全校討論集会開催と安保抗議高校ストライキについて全校投票を行う」提案を採択。
  •  22日、全校集会、「23-25日にストライキ権を確立した上で全日討論集会を行う」提案を可決、学校側はこれをうけて3日間全日HRとする。
  •  24日、全学闘争委員会(全闘委)、結成集会を開催。
  •  25日、高3学年集会、定期テスト全廃を決議。
  •  30日、高3学年集会、決議を再確認し期末テストの無期限延期要求を決議。
  • 7月1日、学校側、「実力テスト」と名前を変えてテスト強行を表明。
  •  3日、全闘委「公開質問状」。
  •  4日、学校側「公告」。
  •  6-8日、全闘委、抗議のハンガー・ストライキ。

 私たちは、灘高校全学闘争委員会結成宣言で、学校は【帝国主義に奉仕して、その人材を養成し、帝国主義的世界・〈差別〉社会秩序のための階層選別をやっている】として、【われわれに「教育外的・学問外的」強制、腐敗、抑圧をもたらし人間的能力の開花を阻害している教育とは何か! 教育者は何らかの権限(権威)がなければ、被教育者に「文化」伝達ができない。この関係こそ“教育”と呼ばれるものであり、問題はその「関係のあり方」―「権限」にある。例えば「単位認定権」「成績評価権」さらに「教育権」などを教師に独占され、支配―被支配の貫徹する一つの権力構造を形成する現行の「授業」「試験」が果して〈教育〉なのか!】と批判した。
 9年後の遠山―勝山論争で、いみじくも遠山氏が言葉にしたとおり、評価はありだが、評点は害あっても何の理(利)もない。闘いは敗れたが、全闘委の根柢からの批判は本質を捉え、的を射ていたのである。闘争時の校長・梶和三郎氏は辞任し、翌1971年4月に勝山正躬氏が第4代校長に就いた、闘争をおさえる強面として。当時もこの交代は、東大における全共闘運動のなかで69年1月入試中止、同4月に東大総長に就いた加藤三郎氏への交代に例えられていた。

 公教育とは何か。それは、いつ、どのようにして生まれたのか。
 機械の時代が、それまでの時代に必要でなかった公教育を必要とした。ここに起源がある。それまでは、人間の生産的生活と人生は重なりあっていた。農村での農事のあれこれと共同体的生活は一体であり、都市での親方のもとでの徒弟仕事もまた人生と一体であった。子供の成長、学習は、大人たちの生産的生活と一体であり、学びはそのなかにあったのである。
 しかし、工場の労働には、人生との一致はない。そこから、失われた人生の指南を与える役割、および工場の機械のリズムのなかで働くための事前の訓練の必要から公教育という制度が必要になった。学校は、社会が必要とする児童の訓育のための、専門家(教師)の組織として生まれたのである。〔つづく〕

2020/03/10 競争原理批判(3)――競争原理をめぐる遠山啓と勝山正躬との論争

〔承前〕朝日新聞朝刊社会面コラム「いま学校で」に往復書簡形式で連載された数学者・遠山啓氏と灘高校校長・勝山正躬氏の論争は、教育に点取り競争は必要なのかという、現代教育の土台を問い直すものとして、大きな反響を呼んだ。

 遠山氏からの、「いまの日本の学校は小学校から大学まで東大を頂点とする単一のピラミッド組織に組み込まれていますが、そのピラミッドを構成している一つ一つの積み石は、せんじ詰めれば点数であ」るとの現状認識から、「テストの点数は人間の価値を測る絶対的な尺度であり得るのか」という問いかけだった(往復書簡①)。これに対して、勝山氏は「絶対的な尺度ではあり得ない」としつつ、「私はテストはやはり必要だと信じています。およそ強制のともなわない教育などというものはあり得ない」という(往復書簡②)。遠山氏は、「テストは必要」だが、「どう考えても点数をつける必要はなく、ただ答案用紙に誤りを訂正し批評を書いて生徒に返してやればよい」「人間が強制なしに学ぶ強い本能をもっている…私は強制なくして教育なし、という信念はまちがいだ」と主張(往復書簡③)。勝山氏は「点数をつけることが…生徒を点取り競争にかりたてる…といわれますが、…これは…思い過ごしではありますまいか」「強制なしに学ぶ強い本能があるといわれますが…子どもを本能のままにまかせたら遊んでばかりいて、しまつにおえないのではないか」と返した(往復書簡④)。
 ここで遠山氏が、「教師が一人の生徒をあらゆる角度からながめてその特徴を知ることを、私は「評価」とよび、点数をつけることを「評点」とよんで、二つを厳格に区別すること」を提起し、「教育には私のいう評価はあくまでも必要ですが、評点は不必要であるばかりではなく、有害である」との意見を述べた(往復書簡⑤)。
 勝山氏は「競争原理の否定…これは人間の自然に反します。」として、オリンピックや野球、相撲などを挙例した(往復書簡⑥)。遠山氏は「教育は子どもたちの競争本能を利用すべきではなく、どの子どものなかにも潜んでいる真善美に対する願望を見つけだしてそれを育ててやることを原理として打ち立てるべき」と反論した(往復書簡⑦)。勝山氏は話題を変えて「優等生になりたがるのも生きがいの一つであれば、劣等生の優等生を見かえすのも生きがいの一つで、どちらが灰色かは分からない」という(往復書簡⑧)。遠山氏は、競争原理批判に対する反論の多くがスポーツを挙げるが「学校の点取り競争は日本の子ども全部をまき込む体制であって、スポーツとは規模の点で比較にならない」「学校の点取り競争には、スポーツにある公平の原則が欠け…たとえば家庭環境という条件は得点に大きな影響を及ぼし…東大生の家庭の収入は全国一…点数のなかには父母の収入からくる点数もはいっていることにな」ると反論した(往復書簡⑨)。勝山氏は「私は現在の学校教育が荒廃しているとは思っていません」「今ほど自由に学校教育のやれる時は、かつてなかった」と主張(往復書簡⑩)。遠山氏は「私は日本の学校教育は荒廃の極に達していると考えています…先生と私の意見はまっこうから対立している」「優等生はまた別の形の荒廃に侵されている…彼らの多くは二十歳にもならぬ前にウヌボレ病にとりつかれ…哀れに思え」ると指摘した(往復書簡⑪)。勝山氏は「東大病患者が入ってくるのではなくて、大学へ進みたいと希望する諸君を預かり、その希望を満たすべく、学校がちゃんとした授業をする、その結果東大に入るものが多くなったのではないか」と述べた(往復書簡⑫)。
 遠山氏は、テストでいい点をとるには「狭いワクのなかで考えて、はやく答えが出せて、ミスをしない」優等生タイプでなくてはならず、「このような性格をもったテストで子どもたちを点取り競争に駆り立てる現代の学校教育は、官僚型の子どもだけを認めて他の型の子どもを認めないようになってい」ると批判(往復書簡⑬)。勝山氏はテストの三つの条件それぞれに「狭いワク内の、しかも教えられたことをテストするのはむしろ大事」「頭の回転を早くする訓練も含まれている」「ミスをしないよう指導するのもテストの目的の一つ」と反論した(往復書簡⑭)。遠山氏は「日本の教育でいちばんよくない点は価値判断のい物差しが一本しかないこと」「現在の文教政策は…この縦隊的構造をますます強くする方向に進んでいる…その具体的な表れは大学入試の共通一次試験…価値体系の一元化はますます徹底的になる」と批判(往復書簡⑮)。勝山氏は「日本の学校教育を縦隊から横隊へ」に「同感」「初めて先生と意見が一致した感じでうれしく思う」と述べた(往復書簡⑯)。〔つづく〕

2020/03/09 競争原理批判(2)――旭川学テ事件判決が残したものは何か

全国学力テスト(悉皆式)はいま、日本の教育をおおうテスト万能主義を作り出している。1956年から1965年にかけて行われた「全国中学校一斉学力調査」(全国学力テスト)を実力阻止しようとした教員らが公務執行妨害罪などに問われた旭川学力テスト事件。これは、1976年5月21日に、最高裁判所大法廷判決が出ている(事件番号 昭和43(あ)1614)。
 https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=57016
 教育の自由と権利をめぐって国の権限がどこまで及ぶかが争われたが、判決は、文部大臣が法律を根拠として教育委員会に対してした全国中学校一斉学力調査の実施要求は教育の地方自治の原則に違反するが、右要求に応じてした教育委員会の調査実施行為自体は違法となるものではない、という玉虫色の判決だった。

 判決当日の『朝日新聞』夕刊に「学テ判決 私はこう見る」として、6人の談話が載っている。
【「判決の大筋は支持」伊藤公一大阪大助教授(憲法、教育法)
 率直にいって、文部省の主張を八割方認めた判決、とみてよいと思う。だいたい予想通りで、私も大筋としてはこの判決を支持する。ただ、公権力がどの程度まで教育内容、方法に介入できるかについて「必要かつ合理的なものであれば許される」というのは、あまりに当然のいい方で、あいまいさを残している。
 「介入は思想統制にもつながる」という危惧の声も出ており、許される介入の範囲、程度を、もっとはっきりいってほしかったが、今後は、この判決を下地にして、個々の訴訟で「範囲」が決められていくと思う。】
【「法解釈は進んだが」兼子仁東京都立大教授(教育法)
 これまでの最高裁の判例からきょうの判決は保守的なものになるだろうと予測していたので、結論については別に驚きはしない。ただ、教育権をめぐる法解釈は従来の最高裁判決より相当進んだ判決といえる。
 まず、一定範囲で教師の教授の自由を認め、「憲法の学問の自由の中に教育の自由は含まれない」とした三十八年のポポロ事件判例を変更している。国家の教育権についても歯止めをかけようとする解釈をとり、最高裁の判決として初めて親の教育の自由、私学の教育の自由をはっきり認めたのは画期的といえる。】
【「テスト万能の原点」数学者 遠山啓氏
 全国学力テストが、今日の教育界のテスト万能主義の風潮をつくり出したことは否定できない。しかも、学テで子どもの学力水準を測定することが文部省の学習指導要領の改善に役立てられたのならともかく、現実には、落ちこぼれの子を多数出すような、ひどい指導要領が行われている。学テが今日の教育をゆがめる重大なきっかけとなったのに、最高裁が今回の判決の中で、学テそのものについては「若干の問題点もないではない」としか述べていないのは大いに不満だ。】

 テスト万能主義と競争原理について、参照すべき重要なものとして、遠山ー勝山論争がある。これは、『朝日新聞』紙上で交わされた数学者・遠山啓氏と灘高校校長・勝山正躬氏との論争である。長期連載「いま学校で」の一部として、1979年1月17日付から2月9日付まで8往復書簡(全16回)および2月10日付夕刊のまとめ記事がそれである。〔つづく〕

2020/03/08 競争原理批判(1)――全国学力テストがテスト万能主義を全面化した

全国学力テスト(悉皆式)はいま、日本の教育をおおうテスト万能主義を作り出している。
 試しにネットで「全国学力テスト 一般質問」で検索してみよう。質問する議員と答える教育委員会とのやり取りは、自分の市町村の順位を問題にし、全国平均を下回っているとか、近隣より下位であるとかを問題にしたものがほとんどである。
 たとえば、愛媛県八幡浜市の2015年9月市議会における一般質問(河野裕保議員)
http://www.city.yawatahama.ehime.jp/docs/2015121500047/#taikou1

【この全国学力テストは、実は半世紀前に中学2年、3年を対象に悉皆調査として実施をしております…その学力テストはすごかったですよ。今は県挙げてやってますけど、当時も学校、自治体、大競争ですよ。そして、巡回の先生、テストするときには指を指して4番なら4番、これが回答ですよというふうなことをやったそうです。そして、成績の悪い子、おまえ、あした休んでくれやの、無理に休ませた。そういうことで、不正が横行して文部省はもうやめますと、昭和39年で、たった4年で悉皆調査はやめたということになっておるわけでございます。
 それから、平成19年、実に43年ぶりにこの学力調査が復活した、小学校6年生、中学校3年生を該当にしてということでございます。…この学力テスト、私も思い出しました。ちょうど橋下徹さん、府知事のときでございました。平成21年、前年に行われました平成20年度の学力テストについて、大阪府、小学校41位、中学校45位、何だこのざまは、このていたらくは何だ、教育委員会、怒りましたですよ。…最近では、平成25年、川勝平太静岡県知事が、平成25年に行われました学力テストについて、静岡県の小学校国語A、47都道府県中びりになりました、これも怒りましたよ。ワースト100の学校の校長を張り出せ、いや、それはできません、学校の校長を張り出しますと学校がわかってしまいますからということで、矛をおさめたというようなことがございました。
 そして、現在は、都道府県別に学力の結果といいますか平均正答率を出しておりますよね。ほして、県においても、これは各教育委員会別に出しておりますね。…その競争の結果ということについての御認識どうでしょうか、…全国学力テストの各科目の平均正答率、これ本市のランク、それと各学校間、これの格差はどうなってるのでしょうか…あえて裏日本という言葉を使いますが、…裏日本の学校、県が、この学力テストは上位を占めてるんですね。これ、ずうっとそうなんですよ。小学校、秋田県、これはことしは3年ぶりに理科も復活して5科目になったということですが、この4科目、国語A、B、算数A、B、これトップですね。そして、中学校の国語A、Bも秋田県がトップで、中学校の数学A、B、理科、これは福井県であります、トップは、すごいです。後に石川、富山、青森と続きますね。裏日本という土地柄、学校の成績との関係はわかりませんが、何ともすごいのは福井県ですよ。10科目中、今年度、9科目が3位以内ということであります。
 さて、我が愛媛県、10位以内にやりますよ、目標設定ですよと教育長がおっしゃいましたが、よく頑張ってますよ、やっぱり愛媛県も。小学校、ことしは12位でした、昨年22位ですから、一気に10位上げた。中学校、ことしは9位で、昨年は8位で若干下回っておるところでございますが。それでは、県の中の教育委員会のそういう正答率の順位はどうなんかということですが、これも出ております。平成26年度でございます。26年度、我が本市については、これは小学校が7位で中学校は5位であります。】

 事実がはっきりと教えているとおり、テスト万能主義による点取り競走はまことに激しく、全国学力テスト(悉皆式)がテスト万能主義の風潮を加速していることは間違いない。〔つづく〕


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