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「むちゃくちゃだ」と「すばらしいことだ」 日本文化大革命四十周年に際して
2006年7月
前 田 年 昭
「一」は文化大革命40周年記念シンポジウム(2006年7月16日 東京・専修大学,主催:専修大学中国倶楽部+土屋研究室)会場にて配布したものを一部補足訂正,「二」はシンポジウム討議後の書き下ろし
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一 |
君らは皆,安楽な生活におしつぶされてしまうのだ(パリの壁)
今年(2006年)は文化大革命から40周年にあたる。その歴史的総括はとても難しい。なぜだろうか。
私は今春,丸川哲史氏の労作『日中一〇〇年史 二つの近代を問い直す』(2006年1月,光文社)の書評を書いた(「ヨーロッパ的近代と対峙したアジア的近代の苦闘」2月24日付『週刊読書人』第2626号)。前著『冷戦文化論』(2005年3月,双風舎)と比べても腰が入らず,結論を“巧みに”避ける記述に対するもどかしさのあまり,私はついつい書評という枠を踏み外して「民権から国権へ「堕落」した日本アジア主義を止揚し,欧米的「近代」に抗した実験こそ中国の文化大革命ではなかったのか」と自論をぶつけた。これに対する丸川氏の「応答」には,文化大革命を考えようとする人びとの典型的な気分が表現されていた。
- 第一点は,中国文化大革命が西洋「近代」への抵抗を目した一大実験であったことをまずは確認すべきではないか,という批評であったと解釈します。正直,私は文革観がいまだ定まっていないのです。それは端的に私の努力不足であるわけですが,さらに言い訳をさせてもらえば,文革を語ることの困難さがどのように引き起こされているのか,一定程度押さえる必要があるものと感じます。まず文革は,中国共産党自身がほとんど全否定に近い形で決着してしまった,またそのためにむしろ問うことが難しくなったという経緯があるようです。そこで感じられることは,文革(と呼ばれる期間)において,結果として多くの悲惨が発生したことは,やはり覆い隠せないことだと思います。ただ問題なのは,その悲惨と文革が担った理念はどのような関係にあるのか研究が必要であるということ。さらにまたその悲惨は,かなりの程度,文革それ自体というよりもそれと連動する別の問題から生じたとして,またそれをどのようにカバーするのか,ということも次なる課題となるように思われます。前田さんからの批評に戻りますが,その上で文革が担った理念やその動機の部分をどのように掬い取るのかという課題は,今後もつきつめなければならないものだと考えます。ただその時,文革が担った理念をどのように生き延びさせて行くのか,私たちは既にして向こう側の人間たちと共同の形において問題を立てなければならないところに来ているものと考えます。(「「文革」と「靖国」について 前田年昭氏の書評への応答」3月10日付『週刊読書人』第2638号)
文化大革命を語る気分とは何か。それは,文化大革命の「理念」と「悲惨」を腑分けし,前者の理想はよしとしながらも後者の暴力の前にたじろいでしまう,そのような気分である。後になって引き起こされた結果の,一部の側面を取り出して,否定したり,留保をつけたりするのは,後出しじゃんけんのようでとてもぶざまである,と私は考えるのだがどうだろうか。
もちろん,当時も,文化大革命に共感を寄せた側でも高橋和巳のように理想主義と苦悩に満ちた見方もあった。彼は1967年4月,文化大革命中の中国を2週間にわたって『朝日ジャーナル』特派員として視察,同誌21‐23,25号にレポートしている。
他方,初期の段階から「気味の悪さ」「グロテスクさ」を正面から支持する立場と姿勢もまた存在した。
斎藤龍鳳(1928-1971)は1967年秋,次のように書いた。
- 「むちゃくちゃをやろう!」
「革命は暴動だ」
「行き過ぎをやらなければまちがいはなおらない」
などと年端もいかぬ子らがわめき,町名を変え,看板を叩きこわしていると思うと,やはりあまりいい気持は持たれないものだ。だが,直感的に,私は紅衛兵運動が持つ気味の悪さを支持したい。なぜなら,革命が暴動であること,ある階級が他の階級を撃破する猛烈な行動であるという認識において……,私と毛沢東とは,それほど違っているとは思わないからだ。(「走れ紅衛兵」『武闘派宣言』1969年三一書房所収,初出は『現代の眼』1967年11月号)
また,津村喬氏は1969年春,次のように書いた。
- 「グロテスクなもの」についての人類学者たちの研究を引くまでもなく,人は自らの日常性をおびやかす,なにか理解を超えるものをグロテスクという。青木保は,大学とは本来,近代社会において反世界にむかうまつり=意識下の反日常的非合理性の領域たる「聖なる空間」,「世俗権力に捉われない人間社会の原理をひたすら探求」し「魔神的はものをよびだしつつ追い払う」グロテスクな場としてあったので,政治的合理性を排して安田講堂にたてこもった学生たちは,この意味で大学を再聖化したのだと主張した……。日常性対グロテスクなもの,この図式は文化大革命とりわけ紅衛兵運動の全体を一つの方向から照らし出す。革命までも秩序にとりこまれた,といはあらゆる意識が日常性に屈したということである。……文化を革命するには,意識でない深いところからの行為による始まりが必要だ。(「世界のスチューデント・パワーと紅衛兵運動」『魂にふれる革命』1970年ライン出版所収,初出は『中国研究月報』1969年4月号)
仔細に歴史的事実を検討すれば明らかになるが,文化大革命の「悲惨」な暴力は必ずしも後期になって出現したのではない。1966年6月1日,北京大学校長陸平を批判した学生の大字報(壁新聞)を毛沢東が自らとりあげて全国に発表,6月6日には中学生たちが大学入試改革を提案,同月13日,この提案をうけた中国共産党中央と国務院が入試の半年延期,学校閉鎖を通達。これによって紅衛兵運動誕生の最終的条件が成立したのである。
中学生たちの入試改革の提案が「世界革命の根拠地としてふさわしくない」という理由にもとづいたものであったこと,そして,紅衛兵たちによる学校の教師に対する暴力行為のピークは同年7月末から8月中旬までの期間であったこと,に注目する必要がある。
つまり,嵐のような決起は,「専門家」「幹部」「優等生」による日常の暴力,秩序の暴力を打ち破る「素人」「ヒラ」「劣等生」の暴力によって解放され,噴き出したのである。それまでずっと“役立たず”とバカにされ,“無能”と罵られてきた側からみれば,「むちゃくちゃ」によってはじめて,安心と希望を見いだしたのである。「むちゃくちゃ」こそが「すばらしい」ことだったのである。ここに歴史の弁証法があった。
繰り返すが,理想,理念が後に現実のなかで「悲惨」に転じたのではなく,先行した「むちゃくちゃ」な暴力が「すばらしい」解放を作り出したのである。政治体制が変わった後もなお,沈黙と忍従を強いられつづけてきた人びとにとっては,「専門家」「幹部」「優等生」どもが三角帽子をかぶせられて引き回される事実があってはじめて,口を開き身体を動かし始めたのである。
さらに,文化大革命の歴史的背景を理解しようとするとき,重要な事実は,1963‐64年の中ソ論争である。詳しくは『国際共産主義運動の総路線についての論戦』(1965年,北京・外文出版社)に出ているが,中国共産党は,ソ連共産党による「平和共存」と米ソ協力が世界の革命運動と民族解放運動を抑圧する暴力,つまり秩序を維持する日常の暴力に成り果てていることを批判した。それゆえ,文化大革命が始まるやいなや,世界のほとんどの共産主義運動,反権力運動は,ソ連を支持する側と中国を支持する側とに分裂した。ここにも,米ソ結託という日常の暴力,秩序の暴力に対峙する批判の暴力によって,国際的な批判勢力が物質の力になるという歴史の弁証法があった。
では,なぜ,日本の中国研究者,左翼活動家たちは,文化大革命の暴力と悲惨を前にすると口をつぐんでしまうのだろうか。結論から先取りしていえば,自らが怖気づいてしまうからなのである。それは,自らの立場を現状維持,秩序維持の側に置いているところからから来る結果なのである。
映画『夜明けの国』が写し撮った威厳に満ちたすがすがしい表情がどこからくるのか,理解できず(さらにいっそう悪いことには,理解できないという不安のまま考えつづけるのではなく,自らの“観念”で解釈してすまそうとし),「画一的」な「押し付け」によって「洗脳」されているのではないか,とか,「悲惨」な暴力を認めるわけにはいかない,とか,いった自分自身の“観念”(これらの“観念”がいったいどこからきたものか考えてみることが必要だろう)とのジレンマに悩み,口ごもってしまうというわけなのである。
傑出した中国研究者であることによって,傑出した日本近現代思想家でもあった竹内好(1910-1977)はこの保守意識を「一高‐帝大‐高文という教育コースと,それに伴う日本的な立身出世の教育精神」であり,これを地盤にした「指導者意識」だと指摘している。
- ……日本文化の構造がこのように固定したのは,時期でいえば明治十年ではないかと思う。明治維新の革命が,反革命にたいして勝利をえたとき,つまり反革命を圧殺することによってそれ自体が反革命へ転化する方向で革命に成功したときである。明治維新は,革命として成功したことにおいて失敗した。辛亥革命が,革命として失敗したことにおいて革命の原動力を失わなかったのとは,反対である。日本でブルジョア革命が成功したのは,日本にそれだけの物質的基礎があったからだという進歩主義者たちの議論を,私は信用できない。そういう議論を出してくる精神が,やはり日本文化の構造なりに形成されているように思う。つまり一高‐帝大型の,指導者型の考え方だ。日本には,ロシアや中国に見られたような,アジア的な野蛮な抵抗がなかった。つまり反動が力弱かった。その反動の弱かったことが,同時に革命を反革命の方向に成功させたのだと私は思う。なぜ抵抗が弱かったかというと,これも日本文化の構造とつながるのだが,歴史的に形成された日本人のドレイ根性に関係してくると思う。(「指導者意識について」『竹内好評論集第二巻 新編日本イデオロギイ』1966年筑摩書房所収,初出は『綜合文化』1948年10月号)
これを援用していえば,戦後日本は戦後復興と沖縄「返還」を成就したことにおいて反革命に堕し,中国は文化大革命に挫折したことにおいて抵抗の契機をたもち続けているということだ。「専門家」が「素人」をおさえつけ,「都市」が「農村」を支配する社会の基本原理に対する造反=むほんとしての文化大革命は日本でも中国でも何度でもやる必要がある。
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二 |
7月16日に開かれた文化大革命40周年記念シンポジウム(東京・専修大学)では,4人のパネリストの提起を受けて,討議がなされた。
なかでも,表象文化論専攻と称する,ある論者の発言をめぐる討議は興味深い。映画『夜明けの国』の,労働者家庭の台所を映した場面で「肉の量が母娘二人分にしては多く,“作為”だ」というのだ。この寂しい莫迦に対しては,会場から批判が出されていたが,客人を迎えれば,日々の食事よりは“見栄”をはるのは,礼儀としても“自然”ではないか。
私がふと思ったのは,国交がなく形式的には戦争状態の国から来た撮影隊を客人として迎えたとき,その肉は,カメラマンや通訳ら撮影隊の人たちに食事をしていくようすすめた,少なくとも数人分ではないか,ということである。母娘二人分としか見ることができず,それを“作為”や“やらせ”とみる見方,感じ方には,相手との交通の感情が欠落してしまっている。
市民社会はその胎内からたえず他人を生みだす。資本主義はモノの交通を急速に拡大する。それにつれて,人と人との距離はよそよそしくなっていく。北朝鮮「拉致」問題が全面化した2002年以降,日本社会は,マスコミが垂れ流す“食べものを地面から拾い,ときに腐りかけた残飯や客の食べ残しを奪い合うコッチェビ(浮浪児)の映像”を繰り返し見るうちに,覗き根性がしみついてしまったのではないか。覗きは覗かれる者よりも覗く者をより非人間的にしていく。相手の見栄も友情も何もかもが“作為”や“やらせ”などの悪意にみえてしまう。なぜなら人は自分に似せて世界を見てしまうからだ。こうして,人間は自分を喪失してしまった者と“存在しない者ども”とに分裂していく。
アメリカの欲望にのまれてしまった日本には,孫文を応援した宮崎滔天やボースを匿った相馬黒光はもはや存在しえなくなってしまったのだろうか(そういえば,ビンラディンを匿ったアフガニスタンのタリバン政権に対して,客人ならば「犯罪者」であろうとなかろうと匿ったりすることは解せないなどと語った莫迦なニュースキャスターがいたっけ)。カラスが啄む仁義の死骸(むくろ)! もはや,アジア主義の再評価も再興も幻にすぎないのだろうか……。
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| (おわり)
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