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全共闘運動再検証の契機に 斬れば血の噴き出る熱い志,いまだ健在!
書評・島泰三著『安田講堂 1968−1969』
2006年1月
前 田 年 昭
編集者・句読点研究
『週刊読書人』第2621号 2006年1月20日付掲載 |
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一九六九年一月,安田講堂にたてこもった全共闘の青年たちは機動隊と攻防戦を闘った。彼らはなぜ,「東大出」という「将来の安定」を捨て,逮捕,投獄を覚悟で闘ったのか――本書は当事者のひとりによる証言である。
いま,政治家や官僚,企業人らがテレビの前で「謝罪」を重ねても「不祥事」が絶えることはない。これは,全共闘に立ちふさがった政府・国家権力と東大当局がはしなくも表した日本の社会のありようがいまだに何ひとつ改められていないからだという。
三十七年前から今も怒りつづけている著者の一途さが心をうつ。事件の記憶の鮮明さと裏腹に当事者は多くが沈黙をつづけてきた。命がけで必死であった当事者ゆえに,自分自身を相対化して見つめなおすためにこれだけの時間が必要だったのであろう。
東大解体闘争は,「素人」の「専門家」に対する,「青二才」の「権威」に対する叛乱であり,この社会の基本的な仕組みに対する根底からの問いかけであった。本書はその志を浮き彫りにしている。随所にユーモアをまじえながら,細部にわたる史料と証言によって経過をたどることによって。ニホンザルの研究者でもある著者の,節度のきいた記述は,佐々淳行らによる歴史の捏造を暴いて痛快である。
これまで日本の学生運動は,自らの「安全で安定した位置」を確保したうえでのおしゃべりとして,ともすれば酒席で「学生運動は麻疹みたいなもの」「俺も若いころは……」としたり顔して語られる昔話でしかなかったが,全共闘運動は,生涯“後悔”も“転向”もしない新しい人びとを生み出した。それは,本書の指摘どおり,バリケードのなかでの一人ひとりの決心が,けっして「〜しなければならない」という理屈によるものではなく,「〜せずにはおれない」,そうするのが楽しいから,という動機にもとづいていたがゆえに,持続しえたのであろう。
しかし,全国全共闘はなぜ東大全共闘を盟主にするような愚をおかしたのか。全共闘運動がリーダーに仰ぐべきは東大ではなく,日大全共闘を,さらに中卒者や夜間中学の闘いを導きにすべきではなかったか。そうしていれば東大解体のイメージはもう少し理解されたのではないか。
著者は青色発光ダイオードの中村修二氏の主張を好意的に引いて,大学の教養課程の貧困さを指摘している。が,これは学歴主義ではない新たな能力主義の主張にしかならないのではないか。世の「有能」側にしか感情移入できないという自らの生活感情の歪みをこそ,全共闘は問うたのではなかったか。社会格差拡大を個々人の能力差であとづける新自由主義が幅をきかせるいま,これは本書の課題であるとともに,全共闘の残した宿題でもあろう。
「専門家」が「素人」をおさえつける日本社会の基本原理に対する初めての大胆な挑戦であった全共闘運動(東大解体闘争)は,三十七年を経たいま,ようやく再検証の時期を迎えた。志を捨てぬ“元青年たち”,彼らの存在は,社会のありように悲憤慷慨するだけでなく立ちむかう勇気を与えてくれる。
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(おわり)
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