これまで語られなかった貴重な証言


“六〇年代時代経験”といっても何と多様な日常があることか!

書評・川上徹・大窪一志著『素描・1960年代』




2007年6月

前 田 年 昭
編集者・アジア主義研究

『週刊読書人』第2690号 2007年6月1日付掲載

 「六〇年安保,三池闘争,東大闘争,ヴェトナム反戦,新日和見事件――。僕らのあの時代経験は何だったのか。『民青系』青年学生運動の渦中にあった二人が,六〇年代時代精神を検証する」――帯の文言は本書の内容を的確に要約している。ベトナム反戦運動や東大解体(全共闘)運動が昂揚した六〇年代については既にさまざまな回顧や考察があるが多くは運動を主導した全共闘側のものだった。本書は全共闘と厳しく対立した民青側(日本共産党系)からの,これまであまり語られなかった貴重な証言である。
 ともすればイデオロギーで現実の運動を裁断した記述が少なくなかった民青側の運動からの,ひとりひとりの顔の見える証言は貴重である。民青が全国学園闘争に触発され“左傾化”,これを恐れた党指導部が統制し抑えつけようとし,対する“左翼バネ”として抵抗と闘いが起こる――結果,著者たちは共産党指導部によって排除されてしまうという「新日和見主義」事件への経過がよくわかる。
 前半,青年らしい行動力にあふれた魅力的な人物たちが描かれる。三池争議を闘ったある青年活動家は社会主義になったらどんなに素晴らしいか,冷水,湯とともに三つめの蛇口からはビールが出ると語る。
 数学少年から活動家になったという大窪氏の率直な語り口に,高校全共闘だった私は意外な近さを感じほくそ笑んでしまう。
 彼らは何を契機に自らの生き方について考え始めたのだろうか。なぜ,どのようにして革命をめざすようになったのだろうか。革命を志すまでの人間像の生き生きした姿に比して,活動家になって以後の人間像に感情移入できないのはなぜだろう,“啓蒙され知識を得た人びとによる多数者革命”というイメージに反発を感じるためだろうか――読み進むうちに,革命とは何か,深く考えさせられる。
 冒頭,学生党員のあいだで中国の小説『紅岩』がよく読まれたとある。これにならったわけだろうか,“いずれ来るべき日”に備えて大企業や省庁,裁判所へもぐりこもうとする活動家が「勉強の時間」を確保して姿を隠すという(五九頁)。何だかなぁ,「ミュージシャンをめざす派遣フリーター」はまだしも現実感があるが,「革命をめざす高級官僚」というのはウソっぽくないか。資本に騙され組み込まれていることへの自覚がないからだ。そもそも,こうして成就した“革命”ではやはり“能力のある”エライ人が“能なし”の下っぱを抑えつけるという現代社会の基本関係は何ひとつ変わらないのではないか。専従者の生活が上級へ行くほど安定するというあり方(一三一頁)はまるで現代社会のミニコピーではないか。
 また,連合赤軍事件を「左翼のパラノイアックな自我拡張」と断ずるが,疑問である。連合赤軍事件は近代化,技術化の嵐の吹き荒れる消費社会の生活,習慣に対するひとつの抵抗と敗北ではなかったのか。私などはある哲学者の「我の境界を拡張していけば,宇宙を一大我とすることができる」「総合とはつまり敵を食いつくすことである」という言葉に自己を含めた社会を変える方向を感じるのだが,これもパラノイアというレッテルを貼られてしまうことになるのだろうか。
 同じように変革の時代を生きながらも,日常性は人によってかくも異なるものかと再認識させられる。
 自省の欠落した回顧モノに陥ることなく最後まで読ませるのは,微妙にちがう共著者の対話の妙,面白さ,弁証法の力だろう。一九四五年生の川上氏と一九五一年生の大窪氏との往復書簡で,たとえば運動の敗北について,川上氏は「僕らは内側から崩壊したのではなかった」(三三七ページ)と書いたが,大窪氏は「これはむしろ自壊であった,という点で問題はより深刻」(四一〇ページ)と語る。このような対話から考察を深めれば,本書は現代史の貴重な証言として意義深いものとなるにちがいない。

川上徹・大窪一志
『素描・1960年代』
四六判・420頁・3045円
同時代社
978-4-88683-603-8
(おわり)


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