私たちは,この論文集を一九七〇年代という世界史の激動の時代に世に送るにあたって,発刊にいたる若干の経過と共通の主観的意図を述べておきたいと思います。
この論文集を作成した研究会は,一九七〇年春に発足してから三年の歴史をもっておりますが,いまだ正式の会名をもたず,X研究会という俗称をもつものにすぎません。Xとしてしか自分たちの研究会の内実を総括しえないというところに,この研究会の曖昧さとその苦悩があるのですが,この研究会のかかる不確定性は,単に会員個々人の私的レベルによってもたらされたものではありません。広くは中国の文化大革命から,さらにドイツ,フランス,アメリカ,フィリッピン,トルコなどを席捲し,日本の大学闘争までを包含する現代の階級闘争から規定され,狭くは,会員の出身校・在学校である東京教育大学の筑波移転問題に発する教育大闘争から,研究者たる責任や人間的良心の証を問われ続けるという現代的情況が,私たちのXという不確定性を必然的にもたらしていると考えています。もちろん,私たちの主体的基盤の未確立という条件も一方にもつものではありますが。
一九六六年の羽田闘争・日大・東大闘争にはじまる,いわゆる新左翼諸党派と学生インテリゲンチアをまきこんだ日本階級闘争(それは大学闘争という文化闘争の形態をとってたたかわれた)は,既成のほとんどすべての研究者・学生の自主的研究会を解体し去りました。このX研究会は,かかる情況の中で解体されてしまった多くの研究会の一つである中国社会経済史研究会や中国近代史研究会および宋代史研究会(いずれも東京教育大学東洋史大学院生が中心メンバー)にその源流を求めることができます。そして,これら既成の研究会の解体・自滅の中から,解体と自滅のあり方を問い続けることだけに共感を持つ若干の部分が母胎となり,大学闘争に象徴される文化闘争を,一歩後退した地点で学問,研究,教育の問題として持続的に継承せんとして発足したものです。
かくして,私たちは,発足の条件に規定されて,必然的に二足のわらじをはくことになりました。社会経済史研究会に母斑をもつところの中国史研究という専門性と,教官批判運動から発する現代の学術権威批判(高校世界史教科書批判)という二足のわらじがそれです。いまだ職業的専門性(中国史研究者,高校教師)と社会的存在性(知識人)を統括した唯一無二の集団―たしかな手ごたえのある誓約集団―を形成するにはほど遠い地点にとどまり,「正式の確たる自信にみちあふれた会名」をつけ得ないのですが,しかし,Xは無限である故に私たちの主観的願望と志が,感性として包括されるのだという共通の矜持をもまた秘めておりました。
この三年間は,かかる感性だけが私たちを持続させつづけ,二足のわらじをはいたままでの「前進」をおこなわせてきました。では,私たちは,どこまで前進あるいは後退したのでしょうか。
私たちは,いま到達した地点と位置を知るためにも,あるいはまた,私たちの主観的意図の現実化をはかるためにも,Xでない確かなものを,社会に対象化させねばならないと考え,高校世界史教科書批判の論文(四編)を脱稿し,更にまた中国史研究の個別論文集を発刊することにしたものであります。
私たちの共通の学問的姿勢は,もしそうしたものがあるとするならば,中国史研究をおこなう問題意識の原点に自分自身の社会的存在形態と意識形態のすべてをおくということであり,このことから必然的に研究とその成果が,自分自身の日常的生活と生き方(きざな言い方ではありますが)を逆規定するものでなければならないもの,とでもいいうるでしょうか。私たちのメンバーは,この研究会の発足時においては,すべてが高校教師・高校非常勤講師・家庭教師・大学院生でしたから,「歴史教育」の中で,その真価を問われる歴史研究をおこなわなければならないと考えました。研究主体と研究対象の中に実存そのものがかけられていなければ,それは所詮,研究主体のあり方を問わない商品の生産でしかないのですから。
かかる暗黙の意志にもとづいて,世界史教科書批判においては,家永訴訟の「支援」という姿勢を克服し,中国史研究においては階級闘争とその闘争をめぐるイデオロギーをこそ,私たちの存在そのものにかかわる「心」的課題として重視してきたのです。
しかし,私たちの現時点が,かかる感性をいかなる現実界に対象化しえたのか,はなはだ心もとないのですが,私たちのすべてを,ここに発表し,厳しい御批判を受けたいと思っております。
一九七二年十一月十八日
青年中国研究者会議
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