死者は生者を捉え〔1〕、妄想は遅れてきた全共闘を走らせた



2005年12月

前 田 年 昭

日雇編集者


『ユリイカ』2005年12月号 掲載


傑作中の傑作「とむらい師たち」の誕生 「とむらい師たち」は、葬式に関わる男たちがひきおこす騒動を描いた野坂昭如傑作中の傑作である。隠亡――今となっては差別語として言い換え対象にされる前に死語になったか、火葬場で死体を焼く仕事――の倅で、遺体の顔面を石膏で型取りしてつくるデスマスク師の主人公ガンめん。元全学連で区役所戸籍係のジャッカン。霊柩車運転手のラッキョ。もぐり医者のセンセイ。四人は「今みたいなあてがいぶちのレディメード」でない「仏さんの一生にふさわしい葬式」をという意気込みで葬儀の演出とコンサルタントを始めた。死顔美容、葬儀の予約とり、なかで思いついた中絶胎児の合同葬儀を大阪・中之島公園で大々的に挙行する……。
 冬の風にキンキラチンチンと数百のベビー玩具が鳴りひびき、着飾った母親の会を筆頭に数えきれんほどの見物なんか参列者なのか、祭壇と八枚の受難図をとりまき、やがて課長は、「導師入場」とつげ、ジャッカンの集めた乞食坊主十一人が、まんじゅ笠に色あせた墨染めの衣まとうて、〽汝生をうけて父母のいつくしみ知らずと、陰気な声はり上げ、つづいてガンめん他三人が、北河内でようやくみつけたはげちょろけの蓮台に、まごうかたなき棺かついであらわれ、見物どっとどよめき、(中略)そこへ、吹き流しみたいに地蔵の絵ぶら下げたヘリコプターあらわれたから、ますますどよめいて、「地蔵尊御降臨一同黙祷」と課長の金切声なんかまるできこえん。(中略)ローターにあおられて埃が立ち、つづいて棺の中につめられた人形が、ヒラヒラと、まるで上から吊下げられた地蔵を慕うように舞いあがり、そのまま像が固定されたとたんに、水子受難図の除幕。(中略)いかにも毒々しい絵柄だから、一瞬しずまりかえり、中にはあわてて両掌あわす奴もおる、おさい銭投げるのもおる、〽われのもとに来たり、われと共に泣け――。
 単なる法螺というにはあまりに現実離れしたスケールの大きさ、ユーモアというにはあまりにブラック、しかも古くない。発表後四十年近く経たとは思えぬ。檀家制度の崩壊により僧侶は葬式サービス提供者としての職すら失いかねず、ネット墓参や紙芝居法話、ペット供養など新しい動きが最近も報じられる現状なのだ〔2〕。野坂は何を見たのか。いかなる現実が、彼の頭脳を通して言語化され妄想を開花させたのか。ある哲学者が言っているとおり、感性的世界の直観は歴史と社会の産物であるはずだ。
 「とむらい師たち」の初出は『月刊タウン』創刊号(一九六七年一月、アサヒ芸能出版)。同年八月、講談社から刊行された同名の小説集(ほかに「あゝ水銀大軟膏」「四面凶妻」「ベトナム姐ちゃん」「うろろんころろん」)に収録、ぼくはこれで読んだ。七三年には講談社文庫版が出たほか、早川書房刊『ブラック・ユーモア選集』第五巻(一九七〇、一九七六改訂版)に収められたが、いずれも絶版。最近、国書刊行会刊『野坂昭如コレクション』第一巻(二〇〇〇年九月一一日【傍点】)に収められた。また六八年には、監督三隅研次、撮影宮川一夫、主演勝新太郎で大映京都が映画化している(共演は伊藤雄之助、藤村有弘、藤岡琢也、財津一郎ら)。
科学万能への懐疑と近代化への抵抗と 発表当時は公害が社会問題化する直前ゆえ科学万能主義はまだ翳りも見せず、世は昭和元禄を謳歌していた。六三年には「心やさしラララ科学の子」(作詞は谷川俊太郎)と歌ったアニメ版『鉄腕アトム』の放映が始まり、これは「僕は無敵の鉄腕アトム、よい子のために戦うぞ」と歌った実写版以上に技術信仰を強めた内容。六四年一〇月には慌しく東海道新幹線開通、東京オリンピック開催が連続。六五年九月には「人類の進歩と調和」を謳う大阪万博の開催が決まり、この年、大学の学生数が一〇〇万人を突破した。
 大阪近郊の平均的サラリーマン家庭で食うに困ることなく育ったぼくは「湯川さんは鉛筆一本で世界一になったんや、これからは科学の時代や」との母の叱咤を背に小学生から受験勉強に励み、六六年には進学校として名をなしつつあった灘中学校の入学試験に合格した。
 全共闘運動の地響きが聞こえつつあった。全共闘は、科学万能の傲慢からくる教育や医療の荒廃、環境破壊と公害、さらに戦争の危機へ異議を申し立て、六〇年代後半から七〇年ごろにかけ全国を席巻したのだった。
 六九年八月、大阪城公園でハンパク(反戦のための万国博)が「人類の平和と解放」を掲げて開かれた。七〇年、ぼくは友人と学校新聞に「矛盾はらむ『世紀の祭典』」(二月)、「人間不在の万国博」(五月)と連続で特集記事を書く。途中、三月の開幕日には安保万博粉砕共闘会議(代表針生一郎)主催の反対デモで逮捕され、ブタ箱に三泊四日した。自身が逮捕されておいて「反対運動がわきおこっている」などと学校の新聞に書く生徒に先生方はさぞお困りになり扱いかねたこととみえ、学校行事として予定されていた万博見学は中止になった。ぼくの反万博は、「ヨーロッパ的近代化」に対する懐疑、そして科学技術万能論に対する反発だった。
 そんなときに読んだのが「とむらい師たち」。死体と葬式の百科全書ともいうべき人間の死のありようの多様さ、迫力、面白さに圧倒された。農村や炭鉱を犠牲にした都市化。万博が象徴する近代化へ突き進む、日本社会の「必死」の突進ぶりを、その陰で忘れ去られた犠牲者、死者たちを浮かび上がらせることによって嗤い飛ばしたものとして、ぼくは読んだ。
 いま思うと、敗戦にこだわり死者の忘却に抗いつづけている焼跡闇市派・野坂の姿勢に、大学生たちの全共闘「敗戦」が明らかになってきた後で「一周遅れの全共闘」を始めた自身が共鳴するものがあったにちがいない。いまから始めてもなぁ負けるやろ、けどあきらめるわけにはいかん、あれだけ犠牲者も出たことをなかったことにするわけにはあかんやろ。
 「とむらい師たち」四人は、水子供養でボロ儲けするとやがて分裂、ジャッカンは水子地蔵の金流用して葬儀屋の業界誌を出して葬儀予約の注文をとり、葬儀会館設立に乗り出そうとする。「ジャッカンは(中略)人間かわってしもた、金できたせいやろ、元全学連も頼りないもんやで。そこへ行くと隠亡上り、特殊部隊くずれは筋金入りや」。「死人に口はある」と初志を貫こうとするガンめんは、医師免状もないまま戦地で整形美容を習い覚えたセンセイと葬博(日本葬儀博覧会)の実現をめざす。
 そや、万博に対抗したろか、なんや、未来の日本のヴィジョンがどないしたとかいいよって、明日ありと思う心の仇桜やで、お祭広場がどないしてん、白骨の御文章ひとくさりでそんなもん吹っとんでしまうで、朝【あした】の紅顔夕べの白骨、そやがな、今日は万博、明日は葬博いう標語どうや。
 すでに五〇年代には日本全国に公設の火葬場が整えられ、野辺送りと土葬、野焼きは六〇年代半ばには行われなくなっていたという〔3〕。「医療の社会化」により自宅で最期を看取ることも少なくなった。死は六〇年代になるとますます見えないものになってきていた。見えない死はまた見ない死でもあった。電車のなかで、公園や街頭で、倒れている人がいたとき、大丈夫だろうかと一瞬は心配しても、すぐに、あぁホームレスか、きっと酔っ払って寝てるんだ、などと見なかったことにしてしまう。こうして人間は自分を喪失してしまった者と“存在しない者ども”とに分裂していく。
 野坂の作品がしばしば偽悪、露悪と言われるのは、社会の悪を写しとった鏡ゆえのことであり、生活に追われて日々をすごす人びとが打ち捨てて見ないことにしたものを拾い上げ、見せつけているからだ。「敗者の文体・話体」(種村季弘〔4〕)と言われるゆえんである。しかし、こんなにひどい現実がありますよと警鐘を鳴らしたり啓蒙したりする風はない。土台にある終末論は明るい終末論なのである。正反合としての、万博(定立)―反博(反定立)―葬博(総合)は、明るい万博―暗い糞マジメな反対―明るい終末でもあったのではないか。
 ぼくにとって全共闘運動は「ヨーロッパ的近代化」に対する批判から始まったが、では対抗モデルは何だったのかといえば、中国の文化大革命であり、アメリカをたたき出しつつあったベトナム戦争だった。小学生のころ、級友たちとちがってぼくに夏休みや冬休みに帰る“いなか”はなかったほど都市型住民であり、「内なるアジア」はすでに失われていた。「ヨーロッパ的近代化」への批判は「内なるアジア」の復権ではなく「外なるアジア」への憧れだった(これが運動のとんでもない頭でっかちの観念性の一因でもあった)。そうでしか「内なるアジア」再生と自分自身の変革はない、そう思うようになっていた。
 大学へ進んで歴史学をやりたかったぼくの敬してやまない先生方は全共闘運動のなかで造反教官となり、大学を去っていた。いかに生きるべきか、学問をやるなら教授に頼るべきではないと思っていたにしろ自問の日々。「基礎としての学問」をやるために大学へ進み、しかるのちに社会運動をやるとか、「学生運動をやるために大学へ」とか、いずれも二股主義に思えた。そんなとき目にした、下放せよ、下放とは親兄弟妻子になげかれるような生活に「身をおとす」ことだ、という呼びかけ〔5〕は心にふれた。「こちら側」で死んだような時間を過ごすぐらいなら「あちら側」へ一歩を踏み出してみようと思った。見る眼、感じる心をなくしていたときには見えなかった/見ようとしなかった“存在しない者ども”と生きることで眼と心を取りもどそうと思った。背中を押したのは、文化大革命の「下放」と全共闘運動の「造反有理」と、野坂の小説だった。
 七一年春、ぼくは灘高校を中途退学。暮れには大阪の日雇労務者の街・釜ヶ崎にたどりつく。
 そこで野坂ファンの遅れてきた全共闘少年は「とむらい師たち」を実際にやってみようと思ったのである、無謀にも。頭でっかちでせっかちだったぼくは、肉体労働のなかでゆっくりと流れる時間を過ごしはじめた。
「死人に口はある」、死者は生者を捉える 一九七二年秋の彼岸、中日の九月二四日に、大阪・四天王寺境内で行なわれた大阪府警本部鑑識課主催「行方不明者相談所」で、ぼくはたまたま見た資料、五一年以降全国の警察で取り扱った身元不明の死者二万二千体の記録・顔写真に衝撃を受けた。日本は豊かになり貧乏はなくなった、というのは真っ赤な嘘だった。圧倒的に多かったのは「西成」署扱いかつ「労務者風」。目をむき半分つぶれあるいは腐乱した顔を見て、死者を見送るというが見送る人もいない彼らはいったいどこへ見送られていくのだろうか、不憫でならなかった。
 小学生のころから神社仏閣が好きで、『日本霊異記』から『雨月物語』まで怪異ものが人一倍好きというぼくは、「七人ミサキ」を思い浮かべていた。あちこちを彷徨う祀り手のない死霊で、七人で一緒に彷徨い、人間ひとりを殺せばひとつの霊が成仏できるという言い伝えである。年間三〇〇人野垂れ死ぬということだから、毎年三〇〇人が死ななければ成仏できないわけであり、それはとても怖ろしいことだ。
 死者は語らない。が、何かが聞こえてくるように思えた。成仏させるような力はないが、彼らの死の実態調査から始めるしかない。そう思ったぼくは「年間三〇〇名の行路病者の死を生かすために! もっともっと具体的・徹底的・全面的な調査研究を!! 一九七二・九・二四(二五加筆)」〔6〕と呼びかけ、釜ヶ崎医療を考える会の友人たちと調査グループをつくった。
 釜ヶ崎は街を囲む同心円上にさまざまな新興宗教の教会や施設があるが、街のなかは一部のキリスト者を例外に、労務者の死を看取るものはいない。宗教者たちが釜ヶ崎の現実を前に立ちすくんでしまったからか、葬儀業者が儲けにならぬと諦めるからか。人は自分の遺体を処理することはできないから、死者の身体はモノとなる。結局、行き倒れると、大学で医学実習用に解剖される。天六の先、北斎場にはいまも巨大な慰霊碑が建つ。
 一一月二三日(勤牢【傍点】感謝の日)朝、愛憐労働センターで「無名労働者追悼集会」を催し、見送られることなく死んでいった労務者たちを弔った。よそ者のぼくは当時、活動家の習慣どおり「わしらは~」と「仲間」ぶりを強調してアジ演説するたびにどこか後ろめたかったが、この朝はたまたま夜勤明けで泥だらけのかっこうのままだったので共感を得たようだったのが嬉しかった。一二月六日には、西成市民館に一五〇人が集まって「釜ヶ崎労働者をくいものにする悪徳病院糾弾集会」を開催、そこで「仲間の『野たれ死に』を生かすために」という調査の報告を行った。
 一九七二年三月二八日午前一〇時三〇分、ドヤ「パレス」で、そうじ人が室をそうじにいった時に、宿泊していた千葉三郎さん(本籍・香川県)が死んでいるのを発見した。死因は窒息死。/五月一二日午前一時五〇分には、阪和病院=住吉区南住吉町で、佐藤三之助さん(自称)が亡くなった。死因は頭蓋骨骨折。同月六日午後一〇時四〇分頃、ドヤ「キヨタキ」の管理人が、宿泊費をとりに行った時、倒れていたので救急車を呼んだものだった。(中略)/一一月一九日午後一時五分ごろ、西成区東萩町五二、南海電鉄天王寺線今池―天下茶屋間の踏切で、天下茶屋行普通電車に、仲間の一人がしゃ断機をくぐり抜けて飛び込み即死した。身元不詳。五〇―五五歳、うぐいす色スポーツシャツ、黒色ジャンパー、紺色ズボン姿で、サンダルばき。/一一月二六日朝、西成区出城通の空地で一人の仲間の死体が発見された。寒空の下で行倒れたところをトラックにひかれ、そのまま放置された遺体は、野犬に襲われ、人相もわからぬほどに食い荒らされた。持っていた日雇失業保険手帳から山本さん(五二歳)=本籍・滋賀、とわかった(「毎日新聞」に大きく報道された)。〔7〕
 翌七三年一月、同二月、再び「仲間の死の調査を!」と呼びかけ、さらに多くの人数で調査を行った。
 一人さびしく殺されていった、そして「無縁仏」とされた人たちの調査をしよう!(中略)提起1 全国の「行旅死亡人公告」「死体火葬許可証」を調査しよう! 全国の市区町村の役所にある。閲覧自由。/提起2 全国の神社仏閣・斎場を調査しよう! そして宗教のはたした役割・葬儀の習慣を調査しよう! 今の「坊主」共は、死者の死を生かす=人民の怒りの集約者では、断じてない。死者を足げにするのみ。/提起3 1、2の調査をもとに、殺られた人民の「生きざま」を社会化するあらゆるやり方を考え、人民の葬式(追悼式)を行なう「風」を広めよう!(後略)〔8〕
 他人を食いものにすることのできない労務者たちは文字どおり自分の肉体を切り売りする。通称売血銀行(ミドリ十字)では土方の日当の半分にも満たない現金とラーメンや粟おこしなどの軽食が得られる。多発する労働災害だけでなく、時には自らの指や足を傷つけることもある。身体の不具や欠損は障害者としての級別認定となり、労災事故と同様、カネを得る手段となる。カネが入れば、メシを食い酒を食らうのである。精神病院はといえば、身内がいないことにつけこみ強制入院させて薬漬けにすればカネになる。食うか食われるかだ。何ということか、これは。ぼくは死者たちに急かされるようにして調べつづけた。救急車を呼んだり炊き出しをしたりという日常のなかで。
 七三年春の彼岸には「汗水流して働く人民のための御葬儀と供花のご用命は」「仲間の死を教訓として生かすための、調査・宣伝・復讐ほか追悼全般」をかかげた人民公益社をたちあげ、パンフ「無縁仏案内」を発刊した〔9〕。これはおもしろいほど評判になって増し刷りした。
 また、当時連続して起きていた、コインロッカーへの嬰児遺棄事件の追悼をやろうと思い立ち、七三年四月、大阪・梅田の地下街で慰霊祭を行った。ダンボール箱に趣旨を書いてビラをくばった〔10〕。当時の梅田地下街はまだ「花博」前で、夕刊紙が地下街のそこここの柱に貼りめぐらされた名物・壁新聞も当時はあったし、まだそのぐらいの「自由」はあった。もっとも当日、お経のテープを忍ばせるためのダンボール箱に、おさい銭(?)を入れる人たちが少なくなく、これにはさすがに、にわか「とむらい師」のぼくは気恥ずかしくて、この日だけでやめてしまったのだが……。
「存在しないもの」にされた無数の骨よ、叫べ! 踊れ! ガンめんは死顔様という新興宗教を始め、「そこもかしこも屍臭でみちみちとるような」葬博のために、教祖みずから入った棺桶を掘った穴のなかに一度埋め、何日かたってから御本尊としてよみがえることを計画、ところが地上との連絡が途絶え、やっとのことで地上にはい出る……。
 フタの土の上には一尺ほどの厚さに赤い瓦れきがのっかっていて、とたんにハッと、これは戦災のにおいや。/どないしてんと体をずり上げ見わたせば、教団の建物は影も形もなく、庭一面に草の一本すらみえず眼前にひろがる平地に一軒の家も木立も消えて、山肌は赤くただれ、ただしんかんとしずまりかえり、(中略)道ばたにでたら、かたわらに誰とも見分けのつかんほどくずれて蛆をたからせた死体があり、(中略)赤く焼けただれた焼野に、一筋白く死体の列が地平まで一直線につづいて、その上をギラギラ太陽が照らしつけ、(中略)「待っとってや、わしが埋めたるで(中略)」水爆の炎が地球を灼いたとは露知らず、〽隠亡の穴から風が吹く、風が死人をつれていく、風まかせえ。(中略)親父の唄うとった鼻唄まねしつつ、汗みずくになって穴を掘り、掘り終えると、穴のそばにじっと立ちすくんで、暗い穴をのぞきこみ、のぞくうち入れちがいで死んだはずのお母ちゃんの顔が底にあってなんや笑うとる、そやわしはこの穴から生れたんやないか、お母ちゃん今いくわ待っててや、その場にくずれおち、そのまま穴の中におちこみ、ふたたび上ってこなかった。
 ――「とむらい師たち」約二百枚はこう終わっている。
 平野謙は「とむらい師たち」を「エログロナンセンス」文学の傑作と評し「実に奇妙キテレツ」「こんな外道の作家がどういう経路をへて出現してきたかは、研究に値する」と書いた〔11〕が、野坂自身は『文壇』(文藝春秋、二〇〇二)で、三島由紀夫の「とむらい師たち」評らしきことに触れている。
 三島は、去年十一月に創刊された雑誌、徳間書店刊「タウン」を手にし、頁をめくりつつ、「この最終部分が、小松左京風で惜しい、この作品は傑作です」さらに、ほとんどよどみなく、特定の頁の、ある部分を指で示しつつ、つぶやくように、賞め言葉を口にする。何と返事していいか判らぬ、というより、理解不能の言語耳にしている感じ。
 すでに三島は故人となり、裏づけの取りようもないが事実だろう。そして野坂の妄想世界の真骨頂はこのおもちゃ箱をひっくりかえしたようなハチャメチャな結末にあるのだとぼくは思う〔12〕
 地中から蘇る教祖の話も某教団が、人びとが逃げ込んだ洞窟のなかまで焦土と化すのも某超大国が、現実にしてしまっている。冗談が予言になってしまうおぞましさ。呪うべきは、予言者然として書き散らかされた小説ではなく、妄想に追いついた現実だろう。
 死者たちがこの地上には折り重なっている。「死人に口はある」。みなが口々にしゃべりはじめたら、さぞにぎやかで騒がしいだろう。そのうるさいほど豊かな饒舌の一端を「とむらい師たち」は見せてくれた。
 人民公益社から三十年、野坂の虚構、妄想の極北に踊った全共闘少年のぼくも中年。いま、日本列島に眠る朝鮮人遺骨のことを調べつづけている〔13〕日本の日雇労務者たちがはいていた地下足袋は、すでに三十年前のあの当時に国内ではなく韓国や台湾で、日本から「進出」した企業で働くアジアの人びとがつくっていた。アジアを踏み台にして日本は「経済大国」に突き進んだ。最近、北海道・猿払村の軍用の浅茅野飛行場跡付近の共同墓地跡で行われた発掘調査で遺骨一体が発見された〔14〕。一九四三―四五年、同飛行場建設に従事した朝鮮半島出身者のうち、厳しい労働環境下で約八十人から数百人が死亡したという。棺桶も墓もない、数万の「七人ミサキ」……。
 生きていくのは楽ではない。共感や和解という主張の善意は疑いたくはないが差別と諍いは絶えない。踏みつけたり踏みつけられたりするのもまた必死に生きようとしてのことでもある。悲劇は「相殺」も「交換」もできず、彷徨う遺骨は生者による代弁や利用を拒否している。地下に眠る死者たちの声に耳を傾け、その無念に想いをはせることによって、見えてくる確かなものがあるとぼくはいま、確信している。
 当代随一の唯物論作家野坂昭如は繰り返し断言している。この世はもうじきおしまいだ、と。そして無神論者のぼくは言いたいのだ。この世はすでに死者に満ちている、事実は小説よりも奇なり、と。そのことを教えてくれた豊饒な傑作「とむらい師たち」に合掌!



〔1〕カール・マルクス『資本論』第一版序文、「旧態依然とした生産様式が時代逆行的な社会的政治的状況を伴って生き延びており、そこから生じる苦境が近代的な苦境とならんでわれわれを抑圧している。われわれは生者に苦しめられているだけではなく、死者にも苦しめられている。死者が生者にとりついている(Le mort saisit le vif!)のだ。」(今村仁司・三島憲一・鈴木直訳) 〈戻る〉
〔2〕『週刊朝日』二〇〇五年一〇月一四日号「これがお寺の生きる道」 〈戻る〉
〔3〕波平恵美子『日本人の死のかたち』朝日選書、二〇〇四年七月 〈戻る〉
〔4〕種村季弘「これからの戦後作家 野坂昭如、あるいは敗者の話体」(『野坂昭如コレクション1』の栞、国書刊行会、二〇〇〇年九月) 〈戻る〉
〔5〕DIC「運動の停滞をどううちやぶるのか?」DIC出版部、一九七一年四月 〈戻る〉
〔6〕全文は、向井孝・渡辺一衛編『まず、ぼくたち自身を問題にしよう 根づきの思想』太平出版社、一九七四年八月に収録。
http://www.linelabo.com/74bourei.htmに転載。 〈戻る〉
〔7〕「一二・六釜ヶ崎労働者をくいものにする悪徳病院糾弾集会プログラム」釜ヶ崎医療を考える会、一九七二年一二月 〈戻る〉
〔8〕「無念無縁 殺られた仲間の調査報告1」殺られた仲間の調査会(仮称)、一九七三年二月 〈戻る〉
〔9〕「無縁仏案内」編集発行・人民公益社、一九七三年三月 〈戻る〉
〔10〕「子殺し案内」編集発行・人民公益社、一九七三年四月 〈戻る〉
〔11〕『面白半分』一九七九年一月臨時増刊「決定版、野坂昭如。」一四八ページ 〈戻る〉
〔12〕野坂の「東京小説 慈母篇」のグロテスクな結末は現代の家族が抱える切実で焦眉の問題の見事な描写に他ならない。初出は『小説現代』一九八八年一二月号、『東京小説』講談社文芸文庫、二〇〇五年六月所収。 〈戻る〉
〔13〕「強制連行の朝鮮人遺骨」
http://www.linelabo.com/bk_sp009.htm
 〈戻る〉
〔14〕「強制連行、朝鮮半島出身男性か 猿払で初の遺骨発見」北海道新聞二〇〇五年一〇月三〇日付 〈戻る〉


* web掲載にあたり初出時の誤植を訂正。
p.148上段1行目 ×喪失してしまった者とに→○喪失してしまった者と
(おわり)


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