資本主義はなぜ強靱であったか。社会主義はなぜ無効になったか。



2002年6月

新 田 滋

茨城大学教員

さらぎ徳二編著『革命ロシアの挫折と崩壊の根因を問う』(さらぎ徳二・いいだもも・岩田弘・望月彰・生田あい・新田滋・府川充男執筆,2002年6月15日刊行,私家版)に掲載されたものを許諾を得て転載

 新田滋(東京大学大学院・茨城大教員)の存在を知ったのは,御茶の水書房から出版された大著『段階論の研究』を書店で見た時である。宇野学派いまだに健在なのか? 資本主義の今日を宇野原理論が如何なる段階として捉えたのかと買い求めてみると,予想に反し“システムとしての資本主義”の立場から国民経済学の延長的発展と捉える立場を否定,世界経済を捉える立場をとっている。つまり岩田弘の世界資本主義論を先駆的として評価しつつも,ウォーラーステインの“システムとしての資本主義論”を摂取している。
 昨年十一月二十三日,拙著の出版記念会に出席され,三ブロックのテーゼは誰が創案したのかと聞かれたことから,ウォーラーステインとの関係も知ることとなった。彼は一九六二年生れ,一九八〇年代に大学生となり,ダメなものはダメと明言する異色の,若い世代には珍しいマルクス理論の研究家である。(さらぎ徳二)

第一節 資本主義はなぜ強靱であったか。

マルクスの資本主義的市場経済についての考え方には,いくつかの重大な欠陥が存在した。労働価値説,剰余価値論,資本の有機的構成の高度化―相対的過剰人口―利潤率傾向的低下の理論,窮乏化論・自動崩壊論は大きな誤りを含んでいた。
労働価値説は,投下労働時間が商品の価格を決定するというものである。しかし,これは産業部門ごとに不変資本と可変資本の比率(有機的構成)や資本の回転速度が均一だと仮定した場合にのみ成立しうるものである。つまり,いちばん単純化されたモデル(一次接近)では成り立つが,より複雑化したモデルでは成り立たなくなるものでしかなかったのであった。
剰余価値論は,剰余労働時間の搾取が資本の利潤の源泉であるという理論である。このような理論は,労働価値説によってのみ論証できるものだと考えて,何が何でも労働価値説を擁護しようとした人々もいるが,別に労働価値説によらなくても剰余労働時間の搾取が起こることは説明できることである。労働市場が供給超過(買い手市場)であれば賃金は需要と供給のバランスで低く抑えられる。その結果,労働者がその低い賃金によって買い戻せる消費財を生産するのに要した労働時間が,実際の労働時間よりも短くなる場合も起こりうる。その場合,労働時間の差が剰余労働時間となるわけである。
では,剰余価値論そのものは問題がないのかというとそうではない。マルクスの剰余価値論は,資本の利潤はすべて剰余労働時間が源泉であると考えている。そこに少なくとも二つの重大な欠陥があったのである。
第一に,たとえば現代におけるビル・ゲイツ氏のような大富豪をみてもわかることであるが,資本家というものは仕事中毒であって労働者以上に仕事時間は長いといってよい。ところが,マルクスの労働価値説においては,それは不生産的労働であり価値非形成的労働なのである。そのため,資本家がみずからの仕事に対する報酬を受け取ることは,その全額が労働者の剰余価値形成的労働の搾取だということになってしまっている。このようなマルクスの考え方は,流通労働や事務労働,経営・管理労働や企画・開発労働は生産物を生産しないし商品価値を形成しない,したがって,社会主義計画経済では不必要になる部分だという考え方に立脚するものであった。のちにみるように,こうした考え方がマルクスの社会主義計画経済についての楽観的な謬見につながっていることに注意を促しておこう。資本家自身が仕事時間に対する報酬を全生産物のうちから受け取ることに対して,マルクスのようにその全てが搾取だとすることは誤りである。もちろん,近代経済学のいうように,その全てが資本家自身の仕事に対する「正当な」報酬であるという保障もないのである。
第二に,現実に剰余価値はどのような形態で存在しているかというと,利潤という貨幣形態か商品資本形態,生産資本形態の増大した部分という現物形態で存在している。つまり,貨幣額か物量かのいずれかの形態で増大した部分が剰余価値の現実的な存在形態である。資本家にとって剰余価値の生産が嬉しいのは,それは貨幣が増加して購買できる物量の可能性が増えるからであり,また,実際に手にした物量が増えたからである。そのような観点からいえば,労働者から労働時間をよりたくさんせしめたかどうかは,資本家にとってはどうでもよいことである。そこでもし,いままでとまったく同じ労働時間契約のもとで,技術革新が起こり労働生産性が上昇したとしたらどうであろうか。たとえば,剰余労働時間がゼロで労働時間が六時間で一億個の生産物が生産される場合を出発点として考えてみよう(ここでは社会的総資本・総労働について考える)。そして,ここに新しい技術が導入されて,従来どおりの六労働時間で一・三億個が生産できるようになったとしよう。この一・三億個の貨幣評価総額といままでの一億個の総額とがかりに同一だとすると,資本家の貨幣ではかった名目所得はかわらないことになるが,物量ではかった実質所得は三十パーセント増大したことになる。つまり,資本家は労働者から労働時間を搾取することなく実質所得の増大というかたちで実質利潤を獲得することが可能なのである。このような技術の発展による実質所得の増大がもたらす資本の利潤の源泉については,マルクスは特別剰余価値による超過利潤というかたちで半ば考えかけていたことは周知のとおりである。しかし,それが「特別」であり「超過」であると考えていたところにマルクスの限界があったのである。
マルクスの剰余価値論は,それが労働者の搾取によってのみ資本家は利潤を得ることができ,資本蓄積(拡大再生産,経済成長)も可能となるという大変に誤った資本主義像を作り出してしまったのであった。

さて,マルクスが資本主義の強靱さを見誤った理由には二つのことが指摘できる。第一は,資本主義的生産関係の柔軟性を過小評価したために,たかだか十九世紀中葉の軽工業的生産力の水準で桎梏と化したとみなしていたということである。第二は,経済的下部構造だけを自立化して観察すれば社会構成体の運動法則がすべてわかると考えたために,法律・行政権力や議会・政党,あるいはさまざまな社会的諸団体の多様な次元における力関係の変動が,経済的下部構造と絡まりあって社会構成体のトータルな運動法則を規定するという視点をとることを抑圧してしまったことである。
第一の点は,資本主義的生産関係とはそもそもいかなるものかという問題である。それには二つの側面がある。まずそれは無政府的生産という側面をもっている。中央政府の経済計画が存在しないので,資本家個々人が流通,事務,経営・管理,企画・開発のための費用をバラバラに負担し,勝手な予測に基づいて需要,供給を行う。そのために恐慌をはじめとして膨大な無駄が生ずるというように,マルクスは考えた。別にマルクスだけが考えたのではなくて当時の非常に多くの知識人,思想家がそのように考えたのだった。そこで,社会主義計画経済のほうが無駄のない生産力の発展を可能とするだろうと考えた。これをサン=シモンの影響を受けたエンゲルスだけの考え方であって,マルクスは無縁だというようなことをいう人もいるが,そういう歪んだ擁護論はかえってマルクスの真価を見失わせるものであろう。むろん,こうした考え方は,無政府的生産が生み出す無駄よりも比較を絶して計画経済のほうが無駄を生み出すという歴史的経験(ソ連型計画経済や西側の産業国有化)によって二十世紀中葉になって決定的に失墜したのである。ただし,それはたんに歴史的経験によって示されただけではなく,のちにみるようにハイエクらによって原理的にも論証されたのであった。
資本主義的生産関係とマルクスがいったときには,もう一つの側面があった。それは,マルクスが個人・家族経営規模の資本企業を具体的に念頭においていたということである。そのために,鉄道,鉄鋼,石炭などの重工業的生産力が発展してくると,個人資本主義的生産関係は桎梏となると考えたのだった。だからこそ,信用制度や株式会社形式の発展を「資本主義的生産の限界内での私的所有の止揚」というように,社会主義的生産関係への過渡的形態と考えたのであった。「私的領有と生産の社会化の矛盾」というように「資本主義の根本矛盾」をとらえることもまたエンゲルス特有のものとして,マルクスと無縁のように強弁する人がいるが,これもまた無意味なことである。重工業的生産力が発展すればするほど,資本主義的生産関係,私的所有制度はしだいに縮小して,組織的,社会的,国家的な管理に置き換えられてゆかざるをえない,このような考え方はマルクスの中にも存在したのである。実際に,二十世紀中葉まではこのような傾向で組織資本主義化がすすんでいったことは一面の事実であった。しかし,いかに企業組織内部においても企業間の関係においても組織化がすすんだからといって,株式会社は資本であり市場競争を行うものであることにかわりはなかった。さらに,他面ではたえず中小・零細企業やベンチャー・ビジネスとの一定の競争関係におかれていたし,また,株式会社の株式資本が流通する資本市場においては私的所有の論理が全面的に支配したのであった。つまり,株式会社は資本市場という市場において資本を調達することによって,巨大化する生産力に対する桎梏となることなく,完全に「資本主義的生産の限界内」で生産力を発展させてゆくことができたのであった。

第二の点は,マルクスが経済的下部構造だけを観察して法律・行政権力や議会・政党,あるいはさまざまな社会的諸団体の多様な次元からなる社会構成体のトータルな運動法則を見誤ったということについてである。マルクスは,機械制大工業の発展とともに,産業予備軍が増えて労働者階級全体として窮乏化するという論理だけではなく,労働者階級そのものの人口が相対的に増え,労働者の社会化がすすむと考えていた。そのために,社会の中で巨大資本家は孤立するにいたるので必然的に「最後の鐘が鳴る」と考えたのであった。しかし,「最後の鐘が鳴る」ためには私的所有制度の変革などの政治革命を媒介とする必要がある。ところが,ひとたび政治的な次元を考慮に入れるならば,労働者階級が増大し労働組合が合法化され強大なものとなり,議会でも労働者政党の議席数が多くなってくると,資本家階級や地主階級やその政党は妥協的な政策をとらざるをえなくなることは必然的である。その結果,階級協調的な改良主義,修正主義,修正資本主義がトータルな社会構成体の発展方向となる以外にはなかったわけである。
第二節 計画経済はなぜ無効になったか。

マルクスは社会主義計画経済については具体的には何も考えていなかった。また,たくさんの人々からなる社会や集団における意志決定のやり方の困難さについても,驚くほど何も考えてはいなかった。
古くから社会主義に対する批判の論法には,二つの代表的なパターンがあった。
まず,いくら働いても平等な分配しかされないのでは,結局みんな一生懸命に働かなくなる。いいかえると自由な競争がないので新しいことを開拓する励みも,怠けることに対する歯止めもなくなり,社会的生産が非効率的になるというものである。この批判に対しては,マルクスの『ゴータ綱領批判』における,社会主義の第一段階では「労働に応じた分配」が行われるが,その過渡期を通じて人間性そのものが変革された社会主義の第二段階では「必要に応じた分配」が行われるようになるという模範解答が用意されていた。これは,しかし,あまりにも無責任な遁辞であろう。何かのカルト宗教のように人間性そのものの変革を社会変革の前提条件に入れているわけである。事実,マルクス主義からはマルクス,エンゲルスの思想体質とはまったく異質なような種々の傾向の宗教的諸分派が派生してきてしまった。また,マルクスの論理構造を逆にみれば,人間性そのものの変革がなされない限りは,永久的に「ブルジョア的母斑」をつけたまま「労働に応じた分配」を行う経済システムが続けられるといっているようにも解釈できなくもない。要するに,マルクスが用意した解答は,ただ人間性そのものが変革されて,人間ならざるもの――天使であるか,サイボーグであるか,ロボトミーであるか――の彼岸の側からなされているものでしかなかったのである。裏返していえば,人間が人間の欲望世界を這いつくばって生き続ける永遠の過渡期社会においては,社会主義に対する常識的批判は是認されているのであった。

また,二つめの社会主義批判のパターンは,収容所国家ソ連やコミンテルン各国支部(=各国共産党)の実態にもとづいて広く行われるようになった批判であり,共産主義では死滅するのは国家ではなく民主主義だということである。この批判は,ソ連をスターリン主義その他のさまざまな諸概念で規定して,そんなものは社会主義,共産主義とはかけ離れているという「反論」で,きわめて安直にすまされてきた。しかし,世の中に常識にもとづく素朴な疑問ほど恐ろしいものはない。常識的で素朴な疑問に対して,形而上学的に難解な,スコラ的に意地の悪い反論をしようとしてきた政治党派が,例外なくたどった末路をみるだけでもそれはあまりにも明らかである。しかし,なぜ常識的で素朴な疑問がそれほど恐ろしいものであるのかの論理的な解明は別個になされなくてはならない課題である。
ボルシェビキはそもそも発足時から民主集中制という不思議な組織原則で出発した。これは本質的には後進国ロシアでの地下活動に対応するための秘密結社方式であるが,レーニンの西欧的インテリとしての矜持が民主主義を全面否定することを許さなかったところから生み出されてきたいちじくの葉にすぎなかったように思われる。任期制と選挙制のないところで代表者に権力が集中するという制度では,どこをどうとっても民主主義は存在しえない。せいぜい運が良ければよいお代官様による啓蒙専制君主制でありうるのが精一杯である。
ボルシェビキは議会少数派の連立によって一九一七年十月のクーデターによって政権を奪取した後,半年ぐらいのあいだに連立していたメンシェビキや左翼エスエルをも強権的に,つまりそれ自体非合法的に,非合法化していった。さらに,一九二一年の初頭には,クロンシュタット水兵やマフノの異議申し立てに対して非妥協の態度で臨み,ついには武力弾圧を行った。しかし,この政権危機に対して,戦時共産主義からネップへと転換を余儀なくなされた。そして,この危機的状況の中でレーニン指導部は分派禁止令を「一時的」な措置として出すこととなった。こうして,ボルシェビキの発足以来の組織体質であった民主集中制は,徹底した分派禁止,他党派禁止によってソ連全土,コミンテルン各国支部に至るまで一元的に貫徹されはじめたのであった。事がここまでくれば,あとは世界史の大舞台における汚れ役を誰が引き受けるかの問題でしかなかった。幸いにしてレーニンはこの直後に病に倒れ,汚れ役はスターリンが引き受けることとなったわけである。
しかし,現実の世界史の中に登場したレーニン・スターリン党の矛盾は,多種多様な現実的な諸関係に規定されているので,歴史そのものの観察だけでは,何がいちばんの問題なのかを突き止めることは困難である。激しい内戦のために一党独裁の軍事的警察的独裁国家を作り出さざるをえなくなったこと。ヨーロッパ革命の挫折によってソ連が孤立し一国社会主義路線以外に現実的選択肢がなくなってしまったこと。日本や中国に比べてさえはるかに商業経済の未発達だったロシアが孤立して社会主義の実験を開始したこと。あるいは独裁的指導者となったレーニンなりスターリンなりの残酷性,陰険性をはらんだ個性の問題……。
これらは,革命の理想がいかなるものであれ,現実からくる圧力に追いまくられて余儀なくされた結果にすぎないかもしれない。では,レーニンが抱いた革命思想の中で,国家や党の民主主義の問題はどのように考えられていたのか。レーニンは一九一六年後半から一七年にかけて,そのための導きの糸をマルクス,エンゲルスの著述群の中に探し求め『国家と革命』を書いた。だが,逼迫する時間の中でレーニンが必死に出した答えは,国家は暴力装置であるというマルクス,エンゲルスを一面化した驚くほど貧しい思想であった。そして,ブルジョア独裁国家を打倒したプロレタリア独裁国家は,過渡期においてはブルジョア的良心の呵責としての民主主義といういちじくの葉などはかなぐり捨てて,容赦のない暴力とテロルでもってブルジョアを収奪し,大衆を強権をもって領導するものだという覚悟を得たのである。この瞬間,ロシア人民にとってはまさしく,「地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて,お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである。」(黙示録第一二章第一二節)というにふさわしい事態がもたらされることとなったのであった。

しかし,レーニンはマルクス,エンゲルスの著作群の中に必死で過渡期の政治形態についての答えを探したはずである。問題は,そんな答えはマルクス,エンゲルスに存在しなかったことにこそあった。たしかに,レーニンはマルクス,エンゲルスが国家は暴力装置であるだけでなく幻想的共同性でもあるという規定を無視してしまった。だが,その規定を生かせばレーニンやスターリンはもっとうまくやれたのであろうか?残念ながら,そんなことでは事態はなんら変わらなかったであろう。そもそも,マルクス,エンゲルスには巨大な人口を抱える社会集団において,意志決定というものをどのように行うのかということについての自問自答が痕跡すら見いだせないのはまったく不思議なほどである。それどころか,マルクスはパリ・コミューンが立法・行政・司法の三権分立を廃してしまったことを肯定しているほどである。マルクスには三権分立,もっと一般的にいって権力分立(チェック・アンド・バランス)ということのもっている意味がどうもよくわかっていなかったといわざるをえない。
権力分立とは何か?それは権力が一箇所に集中した独裁体制の反対概念である。独裁的権力者というものは絶対に無謬でなければならない。なぜなら,もし誤謬を犯してもそれを批判したり是正させる権力をもつものが存在しないからである。では,人間は無謬な存在でありうるか。否であろう。それでは,独裁者の無謬性を絶対条件とする政治制度は人間にとって可能なものであるか。答えはいうまでもなく否である。したがって,当然のように独裁制,民主集中制の社会,組織においては,誤謬を無謬といいくるめることが必然的なこととなるのである。そして,独裁的権力者の支配が誤謬を是正されることなく累積していって最後には,それを是正するのは独裁者の暗殺,謀殺,軍事クーデター,あるいは暴力革命いがいにはなくなるわけである。
これに対して,人間は誤謬する存在であるという原理に基づいているのが権力分立である。批判したり是正を求める権力をもったものが相互に分立していることで,誤謬を累積しながら独裁者が暴走するのをチェックするという考え方である。たとえば,近世以降のイギリスでは国王に対して貴族院(上院)があり,国王・貴族院に対して庶民院(下院)があり,庶民院(下院)には諸政党が対立し,それら立法権力に対して行政権力,司法権力があり,しかも地方分権が歴史的な特質となっている。したがって,権力者がこまごまと分散しているために,ある党派寄りの新聞が対立的な党派の政治家や国王を批判しても,弾圧から守ってくれる権力も一定の範囲内で存在しうることになるわけである。言論の自由というものは,そのような権力の分散の中で隙間を縫うようにしてはじめて現実的に存在することができるようになったものである。そして,自由な言論は,たしかにそれまで狭隘なところに押し込められてきた人類の知的発展を著しく解き放ちはじめた。その結果,言論の自由はあたかも普遍的な原則と考えられるようになってきたのである。
しかし,依然として大小の政治権力者とその追従者の間だけで自由が可能なのにすぎないし,普遍的な原則と考えられても現実的な権力に支えられなければたちまちにして空文化してしまうものである。一八世紀イギリスでは,中小地主や資本家が私有財産権を確固としてもっていたことによって,言論の自由はブルジョア社会的な広がりをもつようになったのであった。そして,そのような成熟を歴史的所与として,一九世紀の社会主義たちは,無産階級には私有財産という自由の基盤そのものがないことを指弾するに至ったのであった。

ところで,このような権力分立が定着した社会においては,行政権力の誤謬はどんなに時間がかかるにしてもいずれは是正されていくことになる。是正されないまでもガス抜き程度の軌道修正は行われる。したがって,このような社会においては暴力革命ということはもはや滅多なことでは起こらなくなる。イギリスの場合,一六四九年のピューリタン革命が暴力革命の最初で最後のものとなった。自由の基盤から排除されていた無産階級によるチャーチスト運動も,選挙権の拡大や十時間労働の立法化によって終息していった。
マルクス,エンゲルスがこのようなことに関して,きわめて無頓着であったことは奇妙というほかはないが事実である。少なくとも,かれらは一八六○年代ぐらいまでは,イギリスでも暴力革命が起こると考えていたのではないだろうか(そうでなければ六七年刊行の『資本論』第一巻の末尾に「最後の鐘が鳴る」などと書いて,わざわざ二十年近くも前の『共産党宣言』からの長文の引用を注記したりはしなかったであろう)。彼らは権力分立というものを理解できなかったから,かなり後までイギリスにおける暴力革命を予測していたし,暴力革命後のプロレタリア独裁の具体的なイメージについても権力分立なきコミューン三原則を立てることとなったと考えるほかはない。
マルクス,エンゲルスほどの思想家がなぜこのような盲点をもっていたのであろうか?それは,彼らが人間の可謬性ということについては,まともに考えたことがなかったということを意味している。また,複数の人間の間のコミュニケーションが透明で瞬時に誤解なく理解し合えるものだと考えていたことを意味している。人間の有限性,愚かさ,弱さ,謬りやすさ,他人のいっていることのわからなさ,といったことが常に念頭にあれば,権力分立の問題は視野に入ってこざるをえなかったはずなのである。人間が神のような理性をもち無謬の存在で透明なコミュニケーションが可能であれば,直接民主制でもすみやかに全員の意志の一致を見るであろうし,逆に,たった一人の独裁者の民主集中制でも人民全体の意志を体現しうるわけで,どちらにしても同じことになる。社会主義的な思想潮流がアナキズム的な直接民主制とボルシェビズム的な民主集中制の両極に分極化するのもそのためといってよい。そして,この両極しか念頭にない社会主義者たちの革命政権や革命政党においては,直接民主制の実験がたちまちにして行き詰まるや,ただちに民主集中制やら分派禁止へと反転して,あとは一度権力を握ったものが何かで死ぬまで誤謬を無謬と言いくるめ続ける過程へと転落していくことが,個々人の主観的善意とは別に作用する鉄の法則として立ちはだかるのである。
このようにマルクス,エンゲルスが人間存在の有限性,可謬性,あるいは人々の間での意志や情報がどの程度滞りなくできるものかというコミュニケーションの不透過性について十分に考え抜いていなかったことは,そのまま次にみるように社会主義計画経済の実行可能性について十分に考え抜いていなかったという問題に結びついている。

社会主義や共産主義とは何かという次元とは別に,計画経済というものがうまくいかないということの意味を,哲学や文学から出発したマルクス主義者は考えたこともない。彼らは社会主義,共産主義が自己疎外の止揚や物象化からの解放といった抽象的哲学の実現に寄与することについてのみ考えたが――それ自体は重要なことである――,そうした社会的諸関係の物質的基礎はいかにして運営されるのかについて真面目に考察したことはない。しかし,それはまさに飲みかつ喰いする経済的下部構造の問題なのである。
たしかに,資本主義的市場経済は一見したところ非常に無駄の多いシステムである。したがって,これを中央集権的な計画経済に置き換えたほうが人類の生産力が発展すると考えられたのは不思議ではなかった。しかし,では具体的にどうやって億単位の膨大な人口からなる社会の個人個人の趣味・嗜好や家庭の事情ごとに異なる需要条件と,生産現場ごとに異なる技術的な供給条件を,中央政府(レーニン党なりゴスプランなり)は情報収集し分析し,的確な計画指令を地方末端にまで伝達してゆけるというのであろうか。
これは二十世紀に多くの左翼系の経済学者が挑戦して誰も答えられなかった問題であった。そもそもマルクスは「将来の世代が考えるべき問題」だと逃げを打っていたにすぎない。このもともと答えのない問題に対して,レーニンなりスターリンなり毛沢東のやり方が悪かったからうまくいかなかった,などといっても二十世紀後半以降の知識人・学生・大衆はもはや騙されなくなったのであった。そのことから目を背けて「右傾化」だ,「保守化」だといっても空しかったのである。ここには,マルクスが(価値形態論を例外として)人間と人間の間のコミュニケーションの不透過性について考え抜いていなかったことが致命的に露出している。
社会主義計画経済に対して,資本主義市場経済においては需要と供給の調整は,市場競争にさらされながら個々の資本家や経営者,事務員,技術研究者らによって行われる流通労働や事務労働,経営・管理労働や企画・開発労働などの「無政府的」行動によって遂行されているものである。そこでは,失敗したものは個別に没落しながら,総社会的には「効率性」が上昇する。
他方,ソ連では具体的な計画経済のための海図なしに社会主義の実験に乗り出し,社会的な生産・分配を編成するための情報の収集・伝達・蓄積のための費用だけでも膨大なものとなり,ついにこの費用の問題だけでも資本主義的市場経済よりはるかに非効率的な経済システムとなってしまったのであった。マルクスは,膨大な人口の社会集団において,政治的意志決定がどうしたらうまくゆくかといったことに思い悩まなかったのとまったく同じ意味において,膨大な人口の社会集団の生産・分配を編成するための手間暇・コストについても思い悩むことはなかった。そもそも,そのような問題意識がなかったのである。
ハイエクが社会主義,全体主義,ケインズ主義・福祉国家への批判の奥の手として出してきたのが,所詮人間は全知全能ではないのだから,社会全体の計画的統制などはうまくいくはずがないという素朴な疑問であった。そして,政府は一度失敗すると,それをどうにかしようとしてまた政策介入を行うが,それは失敗を上塗りするだけであり,そうしたことを繰り返してゆくことによって経済は破綻し民衆の不満が鬱積するので,ますます警察国家化してゆかざるを得ないのだとハイエクは警告したのであった。ハイエクの批判そのものは全体的にはあまりに素朴な疑問の提示に終始している観は否めないが,しかし,彼の突きつけた素朴な疑問そのものは,「乗り越え不可能」のものとしてあるといわざるをえないであろう。
そして,資本主義市場経済が在庫を無駄にしたり不況時に失業者を排出したりしながら,思いのほか強靱な弾力性をもっていたのも,結局は,個々人が自分の利益だけを考え自分の責任で経済活動を行うことで,ある者は栄えある者は没落するというかたちで,社会トータルでみると存続し,産業技術的な発展も競争によって促進されてきたからである。

誤った資本主義像やブルジョア民主主義理解にもとづいて構想された社会主義計画経済と「プロレタリア民主主義(民主集中制)」が悲惨な結果をもたらしたのは不可避的なことであったというほかはない。今後,資本主義市場経済やブルジョア民主主義に対するオルタナティブ(代替案)を本格的に再構築していくためには,資本主義批判,ブルジョア民主主義批判を一からやり直す必要があるであろう。それには非常に時間がかかるかもしれない。だが,それまで現実世界が静穏なわけでもなく,無批判的な現実肯定や保守主義などですまされるはずもない。したがって,歴史的経験から明らかになった,最低限やってはならないこと(レーニン主義や偏狭なナショナリズム等々)を明確にしたうえで,当面する金融グローバリゼーションの暴威や,日本型政治システムの財政・金融破綻の泥沼等々の諸課題に対して,たとえ改良主義であれ,中央権力に対する権利のための闘争という政治的理念は見失われるべきではないのである。




にった・しげる 茨城大学教員

※ 2005年6月13日 若干の誤植を訂正し、公開。
(おわり)


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前田年昭 MAEDA Toshiaki
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