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大学への警察導入の現認報告書 ここに在るのは「公」教育などではない
書評・すが秀実、花咲政之輔編『ネオリベ化する公共圏』
2006年6月
前 田 年 昭
日雇編集者・アジア主義研究
『週刊読書人』第2642号 2006年6月23日付掲載 |
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昨二〇〇五年十二月二十日,早稲田大学キャンパス内で,四年前の地下部室強制封鎖と学友三名への校内立ち入り禁止仮処分に対する抗議集会のビラ撒きに対して,同大教員らによる私人逮捕と牛込警察署による九日間の勾留という弾圧事件がひき起こされた。
本書は,現在も持続する抗議行動の当事者によって編まれ緊急出版された現認報告書である。早稲田,法政など相次ぐ大学への警察導入のみならず,ホームレス排除からエロ規制まで権力の動向を批判し,闘いの可能性を提起しており喫緊にして必読の書である。
すが氏は「序論 ポスト自治空間」で基調を提起している。今回の事件の本質を「全共闘運動…「一九六八年」を結節点とする大学の……大転換の今日的帰趨」だと指摘する。つまり,かつての「規律/訓練型」自治組織は解体され,「監視/管理型」への転換が図られた。かくして「就職したとしても,不安定雇用の危機に不断にさらされている」学生は,「旧来型安定雇用の特権を享受している」教職員から「不断に監視され…随時,排除されても仕方のない存在」とされる。一見「きわめて「平和」な学内状況として現出する」が,それは「警察権力を背景にしなければ維持できない「平和」」なのである。
酒井直樹氏は均質化と平等という国民教育の理念が,グローバル資本主義の下で「国民を分断し階層化する制度として機能していること」に目をつぶれなくなってきたと指摘し,マイケル・ハートは,早稲田の今回の事態を「規律的組織の論理の変容」に呼応したものと捉え,「組織の領域をじわじわと侵略しつつあるネオリベラリズムとその論理」に対する新たな闘いを,と提起している。
松沢呉一氏は「ビラをくばっただけで逮捕される状況はすでに風俗産業においては実現し,いつでもパクられる社会は,エロ出版においては実現してしまった」と喝破し,他者の行動や言論を「不快」「迷惑」で潰すことは既成事実化しつつあるではないかと批判している。
小倉虫太郎氏は,学生運動や左翼運動が消滅してしまった八〇年代の自らの経験の省察から,かつての谷川雁らの「サークル運動の「旗」を拾いなおすことがどのように可能であるのか」と問いかけている。そのために「思いもよらない資源と基盤を探してこなければ」という示唆に満ちた提起を行っている。
また,今年二月に開かれた,武井昭夫・笹沼弘志・入江公康・井土紀州・木村建哉の各氏と編者とによるシンポジウム「大学改革と監視社会」の記録が収められている。討議では「ネオリベラリズムにおける「排除」というのは…『不審者』という表象と深く関わっている」との発言(入江氏),若者が,警察呼ばれて当たり前と「身体性やメンタリティのレベルから…管理されることに何ら違和感も持たずに受け入れるようになってきている」ことや「ビラをまいたり,デモをやったり…という“異議申し立て”のための非常に有効な手段が,古さとか新しさという風俗的な視点で裁かれてしまう」という指摘(井土氏)などが印象的だ。その他,池田雄一,宮沢章夫,初見基の各氏の文章,巻末には当該運動組織による経緯,関連年表が掲載されている。
ところで,ちょっと気になったのが本書のタイトル『ネオリベ化する公共圏』だ。ネロリベ批判といえば事足れりという傾向に対してはすが氏も批判しているが,それ以上に首を傾げざるをえないのは,なぜ「公共圏」なのか。まさか,〜系とか〜圏などといえば学問のタコツボ化を脱したなどと思い込んではいないだろうが,逆にそのような幻想から自由であるようにも思えない。
「公共」圏や「公」教育などというものがいったいどこに存在するというのか。いまここに在るのは金持ちのための「私」教育,「私」空間でしかなく,無産者は無産者のための「私」教育を二重権力として作り出す以外に,生きる道はないではないか。
どこかで誰かが言ってなかったか――「精神的生産の手段を欠いている人々」の思想は,結局はその社会の支配的な精神力に服従していることになる,と。大学と学問,とりわけ人文科学は存在意義自体を問われている。
※ CANCAN 2006/08/18
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(おわり)
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