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韓国の民主化闘争からの問いかけ
〔書評〕文富軾『失われた記憶を求めて 狂気の時代を考える』」
2005年8月
前 田 年 昭
編集者/句読点研究
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文富軾著、板垣竜太訳
『失われた記憶を求めて 狂気の時代を考える』
46判・275頁・2500円+税
2005年7月、現代企画室
ISBN4-7738-0412-2 韓国で民主化という「成功した」闘争を闘った立場からの内省の書。「切れば血の滲み出るような」(訳者・板垣竜太さんの評)問いかけは,たちまちのうちに私に自身の「立ち位置」を明らかにすることなしに読みすすむことを不可能にした。
軍事独裁に抗した民主化闘争――韓国社会を覆ったさまざまな暴力の生々しい記憶はどこへ消え去ったのか。釜山アメリカ文化院放火事件(一九八二年)の「首謀者」として逮捕,投獄された著者・文富軾はこの問いを直視し,自省を重ねる――。一九八〇年五月,韓国の光州で,民主化を求める学生・市民はこれを弾圧しようとする戒厳軍との十日間にわたる攻防戦で,多数が殺害された。十三年後の九三年,金泳三が文民大統領として当選,光州抗争は一転して民主化の象徴として国家によってたたえられるにいたる。被害者が葬られた墓地は「聖域」とされ,九五年制定の特別法に基づき,ついには(後に赦免,釈放されたとはいえ)元大統領の全斗煥と盧泰愚が内乱罪などの嫌疑で法廷に立たされる。しかし誰が,何が勝利したのか。特別法の名分が,光州市民をかつて虐殺した国家の談話にあまりに酷似しているのは何を物語るのか。光州の聖化に同意するのは,自身が権力の暴力を支えた事実を隠し,「みな被害者だった」と自身の沈黙を正当化しようとしているからではないのか。でなければ,なぜ孤立した光州蜂起にはせ参じなかったのか。反米を掲げた自身のなかにもアメリカが内面化されていたのではないか。
「成功した」運動の聖化と闘う文富軾の闘いは,同時にまた,全共闘運動やプロレタリア文化大革命に触発されて,大学へ行かずに下放(肉体労働)についた私の胸にささった。あの時代の熱い運動や闘いはどこへ行ってしまったのだろうか? せめて学問のあり方をめぐって体制にに異議申し立てをしたのならば,思想に生き死にを賭けるとまでは言わずとも,思想の論理と倫理でもってふりかえるべきではないか――文富軾の声は私にはそう聞こえた。
著者の真摯な観点は,文学なき政治は人々の魂にふれえないということを教えている。ある新左翼組織が武装闘争放棄にあたって言明した「日本人民は武装闘争を望んでいなかった」との総括にはどのような内省があったというのだろうか。
「ある時代は,それを記憶する人たちがいる限り,ただあっけなく消え去ることはない」(文富軾) |
| (おわり)
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