|
風の街にて ――寺島珠雄のこと
1978年2月
竹 中 労
寺島珠雄『釜ヶ崎 旅の宿りの長いまち』1978年4月 プレイガイドジャーナル社 所収 |
|
|
|
|
窓吹キ抜ケ扉動カズ吊革ナク
椅子ハ板張リデモアレバ上等
モンペノ女ト復員服ノ男満員
風呂敷リュック木箱スベテ芋
餓エ死ニタクナイ「臣民」ガ
ソウシテ生キテイタ時代。
(友ヒトリ)(69・2)
この詩は,寺島がかつて「釜ヶ崎通信」に発表したものの一部である。
そう,躰の中を風が吹きぬける。
それはいつも,きまって吐胸というかそのあたりを,深い痛みをともなっていく。そのころ,私は乾性肋膜炎を,いえば念力でネジふせようとしていた。
一九四七年,半年あまり山谷に住んだ。
最暗黒・最底辺の都市窮民街から,反乱をおこすことを夢想して。
いつ死んでもよいなどと,意気がっていたわけではない。が,病んではいられぬほど,“生き急ぐ”思いがあった。この眼で革命を見なくては,と。
……何という日々,食糧メーデーの赤旗の波を,闇市の襤褸の雑踏を,木枯らしの泪橋界わいを,戦後の風景を昨日のことのように呼びもどすとき,私の胸は疼く。
悔恨,と呼ぶべきか。二十年後,メキシコシティのスラム街・テピートで,吐胸を衝く痛みはぶりかえした。
翌六八年,私はキューバから帰ってきた。
もの書きの甘い生活を,棄てなくてはなるまいと思っていた。
そして,再び山谷に歩み入ったのである。広島大学からドロップ・インしてきた四人の若ものたちを知り,彼らと山谷解放委員会,自立合同労働組合を組織し,「東京都庁乱入事件」で検挙された。
寺島珠雄との出会いは,いうならば中年の狂疾のさなか。『どぶねずみの歌』(七〇年三月,三一書房刊)のむすびに,寺島自身が私の文章を引用してこう書いている。
×
都合よくここに,友人・竹中労の『山谷/都市反乱の原点』という本があって,ぼくが頼んで書いてもらったかのごとき一ページが見られるので紹介しておく。
〈上野駅の地下道から東京のどん底にノメリこんで,私はしばらく山谷ドヤ街で生活することになった。その体験に即して戦後を語る作業は,べつの機会にゆずることとしよう。とまれ青春の狂疾を,反乱の夢想をどん底の街に私は描いた。
「ルンペン・プロレタリア階級,“旧社会の最下層から出てくる消極的なこの腐敗物”はプロレタリア革命によって,ときには運動に投げこまれるが,その全生活状態からみれば反動的策謀に買収される危険が,より多い」(『共産党宣言』)
――というマルキシズム教理を,表面的に捉える左翼観念論者は,ルン・プロを反革命と速断する。私自身にもはじめ,そのような偏見と差別があった。だが一九四七年秋から四八年春まで半年あまり山谷に住んで,“消極的な”腐敗物とマルクスが慎重に規定した意味を,私は理解した。どん底の人びとは,むしろ一般の市民社会よりコミューン(共同体)的は心情を日常に生きていた。〉
微細な点を措いて,竹中の「狂疾」とするところはぼくと変らない。上野〔ルビ:ノガミ〕から山谷への彼の時期も,ほとんどぼくと重なる。ただ,そんな「狂疾」者が,自分以外にもいるとは当時互いに知らなかっただけである。そして「狂疾」の現症状において,竹中とぼくとは全く同じではない。しかしいま,彼が山谷にかかわり,ぼくが釜ヶ崎で暮している距離の問題とは別個な差異を感じながらも,ぼくは竹中に親しい気持をもつ。(一九七〇年二月八日)
×
私もしかり,であった。
「狂疾」の症状において,寺島珠雄と私の間には,たしかに隔りがあったと思う。
しかしいまでは,ほとんど近似した想念に立っているのではないか? 人はつきあえばたいてい,似てきてしまうものなのである。しかも寺島と私とにはもともと,相寄るべき気質があった。
春一番のつむじ風が,土埃りを捲きあげる通天閣の下で,寺島珠雄と会ってから,もう足かけ十年になる。
寺島はそのとき,東の山谷と呼応して西の釜ヶ崎にも革命拠点を,“労学提携”を構築する目的で,私がオルグにやってきたに相違ないと思ったという。岡山大学C共闘の学生二人を私は帯同していた,だが――
前衛でなく同盟軍でなく
主力では無論なく
うしろに控えもせず
過程に奮迅して斃れつつ
新たな過程を現出せしめる
非編成軍団
擦過する
血をもてる影
の ごとき
(われら)(69・9)
――寺島珠雄は望外の印象を,私に抱いたごとくであった。
赫ら顔にハンチングをかぶった,やさしい眼をした男は,初対面のあいさつはぬきで,「じゃ行こうか?」と私をさそった。ジャンジャン横丁の食堂で,昼下りの酒盛りがはじまった。
いらいずっと十年間,寺島と会えば即座に酒である。一つ釜ヶ崎を焼くか,などという相談はしたことがない。
「狂疾」の同患であることには,おたがいまぎれもなかったが,すこしばかり年下の私としては,まだ悟りきれぬところがあって,症状が昂進していたのである。だが,本音をいってしまえば,もはや老兵であることを,若い世代の後衛にすぎないことを,ひそかに自覚もしていたのだ。
ボルシェヴィキの尻尾を,まだひきずっていたからでもある。『共産党宣言』のルン・プロ規定を深く疑いながら,アナキズムへの飛翔(感覚的にいえば陥没)を,当時の私は危ぶむところがあった。
年長の同患との出会いで,そのためらいは吹っきれた。いうならば,安堵して堕落することができたのである。
メフィストフェレス風に,寺島は私に影響するところ大であった。
さて,自分の生活はと寺島珠雄はいう。
「売文・放浪・労働・恋愛の断続,反復であった」(現代詩人アンソロジー・69)
はじめて彼の詩に触れたとき,アナキスト後藤謙太郎を連想した。詩人に対する非礼は承知だが,寺島の戦後初期に属する作品を,スタイルを改めて(言葉自体を変えるのではない・為念),謙太郎の詩『労働放浪監獄』と並列してみよう。
夕暮近い雨風の街 雲の下を
雲が散乱し 風速十五米 昨夜からの雨
ずぶ濡れの 半焼けビル 屋台店
南瓜の花 コンクリの屑
下水が渦巻いて うねり流れ
ガード下のごみ棄て場が 隊伍を解いて
動き出してくる
(夕暮近い雨風の街)(46・10)
煤煙 塵芥 漲る毒瓦斯
日光は閉ざされ 空気は湿り
汚物の臭い タールの臭い さてまた
機械のやみなき騒音
心は乱され 眠りは奪はれ
闇の底から 呻きが洩れる…
哀れな少女が稼ぎに出かける
雪の降る夜に素足で出かける
肉の切売り パンの一片 制度の悪夢
後藤謙太郎(労働放浪監獄)
風も吹き 雪も降った――
“廻転し・廻転する者の記録”(前出三一書房『どぶねずみの歌』・サブタイトル),寺島珠雄について語ろうとすれば,かならず窮民の街の風景に回帰する。
ひょっとするといや確実に,私たちはあの戦後,人生のすべてを生きてしまったのではないだろうか?
――餓えていた,盗みもした,どん底まで堕ちた。
だが,まっとうな青春であった。
自己の生涯に,真に自由な一時期があったとすれば,それは労働・放浪の廻転し,廻転する,無宿流浪の日々の他にない。
×
一九四七年夏以降,ぼくの生活をきわめて簡単にたどれば,ノガミ=上野界隈における流浪の徒党の一味であり,少女といっても過ぎはしない女たちばかりの小労働組合の長期スト指導者であり,いまは資本金四十何億になっている会社の労務対策員であると同時に労組書記長であり……(中略)
しっかりしたのやチャチなのやいくつかの雑誌を編集し,月一作ぐらいはエロチック・ミステリーを生産し,大衆食堂の板前であり土方飯場のボーシンであり,六〇年安保に際してはミニコミ公刊物による情勢分析をある研究所に提供し,いくつかの選挙に関わり,これら一切を通じて幾人もの女が出没しまた刑務所もあった。
……さらにいうならば,書こうと書くまいとそこにはいつも「詩」と表現するしかないものも存在していた。(『どぶねずみの歌』むすび・またはつなぎ)
×
これは,ほとんど私の履歴である。
“幾人もの女”という箇所を,幾人かの女と書き直せばだが。
私の性〔ルビ:さが〕の芯には,愛欲に溺れられぬエゴイズムがあって,そのためにかえって女たちを泣かせてきたのである。数年前に,ノガミの娼婦・由美子のことを書いた。もし彼女との間に肉の絆がむすばれていたとしたら,私は確実にプロのやくざになって,人のひとりやふたりは殺し,その社会で名をなしていたであろう。
山谷から高橋・森下へ,さらに横浜埠頭の立ちん坊と,ゴロツキ盗ッ人に立ちまじった敗戦後,私を制動したのはイデオロギーでもなければ,とっくに放棄した学生=プチブルインテリゲンチャの身分でもなく,ただ女を愛さなかったことだと思う。
文章が湿ってきた,話題を変える。
鳥打帽子〔ルビ:ハンチング〕について語ることにしよう。寺島との初会で印象的だったのは,彼のかぶっていた茶色の,庇が短かいハンチング・ベレエだった。
私もなぜか鳥打帽子の人である,これ以外滅多にかぶらない。
そもそも,ハンチングとの出会いは最初に父・竹中英太郎であった。昭和初年,アナとボルとを問わず,“左翼”の人士はもっぱらこのシャッポを愛用した。
戦後その伝統は復活して,労働組合のリーダー,革新政党の幹部たちに鳥打帽子は流行したのだが,それはさて措くとして。
一九四七年秋,私を山谷のドヤ街に招いた人物は,街頭の似顔絵描きだった。
彼,メフィストフェレスは,横っちょにハンチングをかぶり,シャツの袖を七分にまくりあげ,丸太ン棒のように太い腕をさりげなく誇示していた。美校中退と称していた,経歴詐称に相違なかったが,それらしい雰囲気は漂っていたのだ。
彼には女房がいた。パンパンであった。
「だるま屋」という簡易旅館で,私はこの夫婦の居候になった。
……不可思議なことであった。酒を呑んで乱れず,身だしなみがよく,世故に長けて,適当に狷介であり,仁義をわきまえ,“男の情操”において欠けることなきますらおが,山谷のドヤに住んで,女房に春をひさがせる生活をしている!?
それが,なぜかに思い至ったときに,わが「狂疾」は骨がらみとなるのだが,ただいま鳥打帽子の話である,問わず語らずご理会をとだけ。
山谷を離れてから,さまざまな鳥打帽子に出会ってきた。とりわけてカツドウヤたち,映画ジャーナリズムの片隅に私が仕事の場をもとめた理由の一つは,“同類”の象徴ハンチングにある。
「夕暮近い雨風の街」から,寺島はずっと頭に鳥打帽子を載せてきたのだろうと,私は勝手にきめこんでいる。
そう,肉体の一部といってよいほど,寺島珠雄にはハンチングがよく似合う。
最初の出会いから,隔意のない友人としてつきあいがはじまったのも,つまりは帽子のおかげである。初対面と思えなかった,あの街頭のメフィストと,私は寺島の風貌を重ねあわせていたのであった――
袋は
ビニールより紙がいい
新聞紙より丈夫で
セメント袋ほどでかくない奴
バラスより砕石
それと 鉱滓も使えるだろう
太鼓と鐘も準備しよう
にぎやかにいくのだ
(ささやき)(66・6)
中ぬきをしたが,これは六六年五月二八日の釜ヶ崎暴動の詩である。
……話を前にもどして,そろそろ稿を括らねばなるまい。
安堵して堕落した,と私は書いた。短絡する向きもあるであろう,つまり革命を放棄したのか,と。
老兵は死なず,ただ消え去るのみ。お前もしょせん安穏に暮したいのか,俗物の余生を望むのか,アルプスでも見てくたばるがよいとおっしゃる!? おそらくは寺島珠雄のこの書物をも,“新左翼”を称する党派の若ものたちはてんから侮って,革命と無縁であるときめつけるのではあるまいか?
説教しようとは思わない。だが,革命がどれほど長い道程を要し,しかもついに無何有であるかも知れぬという認識を持つ者だけが,「過程に奮迅」することができる。少くとも寺島や私にとって,革命はおのれの生きざま(そしておそらくは死にざま)に,深く断ち難くかかわりつづける。
そのことを,理解してほしい。
寺島珠雄の存在は私にとって重い,私のみならず,かつて窮民の街に沈淪したなべての老兵にとって,釜ヶ崎でいま労働・放浪している彼の生きざまは,まさしく革命そのものなのである。
制度を以て制度に換えることを,すなわち革命であると信じている人は,私のいう意味に理会しないであろう。
いつか,「ガード下のごみ棄て場が隊伍を解いて動き出してくる」その日を,私は寺島と等しく夢にみる。いくつもの秩序の廃墟の遠い地平に,「詩」と表現するしかないまぼろしを描くのである。
きょうは酒を飲み,あすは筆を執ってその幻影を人々に語りひろめること。
前に出ようとうしろに控えようと,それは革命ではないのか。石を投げるべき時には,若い衆の後からついていって,せっせと袋を運んだり,太鼓や鐘を鳴らすことだ。
寺島珠雄が私に諭してくれたのは,きっとそんなことなのである。
で,私は大いに安堵して堕落した――
アジアを旅したり,琉球島うたのLPなど製作したり,マルレーネ・ディートリッヒを呼んできてみたり。
山谷で共に闘った四人の若ものの,二人が死んだ。船本洲治,沖縄嘉手納ゲイト前で,皇太子来沖に抗議して焼身自殺。鈴木国男,“精神障害者保安処分”により,大阪拘置所でリンチ撲殺。
……小さなタッパ・ウェアに,鈴木の骨の一片を容れて,寺島が届けてくれた。昨年の六月,国男がいつか行って見たいと口ぐせにいっていた南の辺境,ブーゲンビリア花咲くフィリッピン・ラムット河に夢裡に骨を運んで,水に流してきた。
うしろに控えて,お前は何をしたのか?
吐胸を衝く痛みはくりかえした,だが私は三たび山谷に戻るつもりはない。
ここで書くわけにはいかぬが,前に出ないことで,私は後衛の任務を果している。鈴木国男の骨を大地に還した時にふと,釜ヶ崎でいつか,行き倒れるであろう寺島を想った。跋文に縁起でもないというなかれ,私は実に羨望をこめて,彼の当為の死にざまを脳裏にえがいたのであるから。
フィリピンは雨季,すさまじい雨と風とがマニラのスラム街・トンドに吹き荒れ,洪水と伝染病でいく人もが死んだ。
大ニッポン低国では,その“後進国”からコレラが上陸したと,差別まる出しの報道が行われていた。釜ヶ崎ではこの冬,いく人が無縁の仏となったのだろう……。
一九七八・二・二二
[注]
- 原文の「、」は「,」に換えた。
- 原文の傍点はすべて太字に換えた。
|
|
(おわり)
|
Jump to
|
[Top Page] [BACK]
ご意見をお待ちしております。
|
電子メールにてお寄せください。
前田年昭 MAEDA Toshiaki
[E-mail] tmaeda@linelabo.com
|
|
|
|