きょうここに、中途退学者という「はみ出し者」「裏切り者」の話を聞くという不思議な場に来てくださった後輩の皆さん、そしてこの場を許容してくださった土曜講座担当の母校教員のみなさんに心からお礼を申し上げたいとおもいます。
私がなぜ皆さんに「学問論 私はなぜ四〇年前に母校を中途退学したのか」という話をしようと思ったのか。それは、福島第一原子力発電所をはじめ東京電力、また経産省などに母校の卒業生が少なくないと伝え聞いたからです。個々人を責めているのではありません。進路と職業の、さらに現在やっている勉強の持つ社会性についてともにかんがえてほしいと思ったからです。
私が中退した理由、その結論を先取りしていえば、四〇年前に灘高でも闘われた全共闘運動のなかで、悩み、かんがえ、中途退学したのです。
話の性質上、私事にわたることをお許しください。私は灘中学校・灘高等学校には尼崎市立園和小学校から入学しました。小学生のころは、地図と年表の好きな少年でした。校区の園田は、大阪平野を流れる淀川水系のひとつである猪名川が藻川と分岐し、また合流する、その間に挟まれた周囲一〇キロほどの中州です。ところが当時の地図では、猪名川から藻川にはつながっているのに、同じ名前の猪名川にはつながっていない。いったいどうなっているのか、川は地中を潜っているのだろうかと河川改修前の藪の中の探検に夢中になりました。
何か調べるということの楽しさは、知ることやわかることの楽しさももちろんですが、それ以上に、別のわからないことが出てくることにあります。学問の動機はここにあると、私はおもっています。
また当時夢中になったのは教科書の間違い探しです。人名や歴史の年代がちがうとか国連加盟国の数がちがうとか、見つけては教科書会社に手紙を書き、返事をもらいました。何度もやっているうちに、何だかつまらなくなりました。個々の正しさ(知識の断片)を積み重ねても、私が求める正しさには到達できないと思えたからです。
正しさはどうすれば得られるのでしょうか。
五年生のとき、近所で田能遺跡が発見されました。弥生時代の大規模な集落跡だったのです。毎日のように発掘作業を見に行きました。古代の人びとの日常の生活が目の前の遺物という実在で裏づけられることに興奮しました。
六六年春、灘中学に入学。中学の三年間はちょうど、全共闘運動の三年間、中国の文化大革命の三年間と重なっていました。
慈達雄先生(日本史)からは実証ということを教わりました。実在と記述はちがうということ、基礎としての史料批判が重要だということです。出澤茂先生(地学)からは、自然の階層性を教わりました。階層が異なれば貫かれている法則もちがうということです。
出土した土器をどうみるかによって、歴史の記述は変わってきます。炭素一四年代測定法というのがあります。自然界に存在する炭素一四という放射性元素の半減期(五七三〇年)をもとに遺物の年代を計算するわけです。ですが、海岸に近いところでは内陸より数十年以上古く出るなど誤差があり、補正しなければなりません。もともと三万年や四万年を測るものさしである炭素一四年代測定法の測定限界ともいえます。ここでも、わかることの進展からさらなる新たなわからぬことへの連続があります。
一九六九年、中学から高校に進んだこの年は、私が中退、下放を決心した出来事に出あった年でもありました。
一月の全共闘と警察との安田講堂攻防戦を東大闘争全学共闘会議や全国の闘う青年学生と共に闘ったML派(日本マルクスレーニン主義者同盟−学生解放戦線)は、東大の正門に毛沢東の肖像を掲げ、「帝大解体」「造反有理」と大書し、「一月激闘を五四運動の地平とせよ」と呼びかけました。私は歴史を研究するには歴史発展の原動力としての“民衆の造反”の立場に立たねばならないとおもいました。歴史は研究対象であると同時に自らも参加して主体的に変革を担う対象だと確信したからです。
同年春、阪神工業地帯の中心である尼崎市で阪本勝−薄井一哉の後を継ぐ「革新」首長のエース篠田隆義は『尼崎の戦後史』(『尼崎市史』別冊)の発行を差し止め回収、これに抗議する市民運動との出会いは、私に「革新」の欺瞞性を教え、言説ではなくどう生きるかという観点から物事を判断することを教えました。
『歴史学研究』一二月号に掲載された嶋本信子の論文「五・四運動の継承形態」は、前述の立場と観点に立つ歴史研究の方法とはどのようなものかを事実を通じて教えました。五・四運動は一九一九年に起こった民衆叛乱として中国現代史の原点であり、同時に、闘った青年学生がその後下放していった起点でもあります。
一九七〇年、国際博覧会史上アジア初で日本で最初の国際博覧会、日本万国博覧会が「人類の進歩と調和」を掲げて大阪で開かれました。公害や医療、教育など社会の矛盾が噴きだしていた当時、「進歩と調和」をうたうことは対立と矛盾をおおい隠し、ごまかすことにしかならないと私はおもいました。高校一年生だった私は、近代主義と技術万能論に反対して万博反対デモに参加、逮捕されました。この万博で商用原子力発電第一号として関西電力美浜発電所から会場に送電された「原子の灯」が大々的にもてはやされたことは記憶しておくべきこととおもいます。
私が全共闘運動のなかで学んだことは、すべてのことは関係しあっており、第三者などなく被害者でなければ加害者なのだということです。ベトナム人民を殺しにアメリカ軍の爆撃機が出撃していくのが日本の米軍基地だということは、これを何もしないでみすごすということは、日本の人びともアメリカの人殺しに加担していることになるのではないか。日本でのベトナム反戦運動の昂揚の背後にあったのはこのような気持ちでした。第三者として何もしないことが実は、一方の加害者を支えている――こうした関係は、ベトナム戦争でも水俣病や東電福島第一原発事故でも同様です。
研究対象に対して研究の主体は「距離」を持てといわれるのは、たとえば、試験管を持つ自分の手の温度や湿度が対象に影響することに自覚的であれということです。
しかし、人間は自然のなかにあり自然の一部ですし、新しい社会は、旧社会の意識や習慣に染まった自分自身から、自ら脱皮するように自己変革して生まれていきます。歴史を研究するといっても、歴史研究の主体である自分自身もまた歴史をつくる民衆のひとりなのです。対象にふれずに対象を知ることはできません。対象にさわり、参加することなしに、対象を研究することなど不可能です。
歴史を知ろうと思えば歴史を創造する民衆の社会運動に参加しなければなりません。科学も技術も、だれにでも奉仕する中立の道具などではありえません。研究主体の立場、つまり目的、動機と志という主観的能動性が、研究の性格を決定づけるからです。何のため、誰のための研究なのかが研究の性格を決めるのです。
ここで、全共闘運動から学んだこととして先に述べた、第三者などありえず、被害者でなければ加害者ではないのか、という問いかけが決定的に重要な意味をもってきます。
世の中には「不偏不党」や「公正中立」を標榜するジャーナリズムやアカデミズムが存在しますが、対立する階級から成り立つこの社会のなかでの人間の営みである以上、その対立の局外に存在することなどありえず、科学や技術は元来党派的なものなのです。党派的であること自体はよいことでも悪いことでもなく、ありのままの現実です。問題は、どの党派、すなわち、どのような人びとの要求を背景に持っているのかにあります。
この立場から、四〇年前の灘高における全共闘運動をふりかえったとき、もうひとつの事実にふれておかなければならないでしょう。それは、私に自然の唯物弁証法を教えてくださった出澤先生が、残念なことに、私たちの灘高闘争に敵対されたことです。共産主義といい唯物弁証法といっても一つではなく、そこにも異なるかんがえ方があることを私は学びました。
私は、在学時もっとも大好きだった恩師、長光實先生(数学)のことをおもい起こします。長光先生は私たちサッカー部の顧問をされていました。昔、といっても一〇年ちょっと前まではファイブステップというルールがあり、ゴールキーパーはボールを保持したら四歩までしか歩けなかったのです。ある対外試合で長光先生は夢中になってフォーステップフォーステップと叫んだのです。授業で使っていた参考書がフォーステップという名前だったのです。長光先生にはこんな素敵な忘れられないエピソードがたくさんあります。
学問も社会運動も人間の営みである以上、最後を決するのは人間であり、人間が決めるのだとおもいます。
人間の認識はどのように進み、正しさはどのように得られるのでしょうか。
それは、人間の頭のなかに生まれたときからあるのではなく、人間の生きるための闘い、つまり社会的実践のなかからのみ生まれるのだと私はおもうようになりました。
人間が自然を改造し(自然の改造と変革)、新しい人びとが旧い人びとを批判して社会を改造し(社会の改造と変革)、そうして自分自身の生き方を変えていく(思想の改造と変革)――この三つの社会的実践のなかから正しい思想が生まれるのだとおもいます。
四〇年前、何のため誰のために勉強をするのかを自他に問うた全共闘運動のなかで私はかんがえました。目の前にある学問、大学は、資本と国家のしもべではないのか。私がやりたい学問はこんなものではない、私がやりたい歴史学はここにはない。そうかんがえた私は高校三年生の一学期に中途退学しました。学校から処分されたのでも何でもなく自らやめて「下放」したのです。
「下放」とは、中国の文化大革命のなかで言われた言葉です。文化大革命は、都市と農村、工業と農業、頭脳労働と肉体労働という三つの差別の撤廃をめざした実験でした。農村へ赴き、肉体労働を通じて、自らの旧い思想を点検しようという知識青年たちの運動、それが「下放」でした。
私の下放への決心を励まし支えたフランツ・ファノンの言葉を皆さんにおくり、私の話を締めくくりたいとおもいます。ファノンは『地に呪われたる者』(邦訳=みすず書房、一九六八)のなかで次のように述べました。
能率を語らぬこと、〔仕事の〕強化を語らぬこと、〔その〕速度を語らぬことが重要だ。否、〈自然〉への復帰が問題ではない。問題は非常に具体的に、人間を片輪にする方向へ引きずってゆかぬこと、頭脳を摩滅し混乱させるリズムを押しつけぬことだ。追いつけという口実のもとに人間をせきたててはならない、人間を自分自身から、自分の内心から引きはなし、人間を破壊し、これを殺してはならない。
否、われわれは何者にも追いつこうとは思わない。だがわれわれはたえず歩きつづけたい。夜となく昼となく、人間とともに、すべての人間とともに。
否、われわれは何者にも追いつこうとは思わない。だがわれわれはたえず歩きつづけたい。夜となく昼となく、人間とともに、すべての人間とともに。
(二〇一一年一〇月一日)