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フランス暴動,ホリエモン,早大キャンパス警官導入……。立場への決断を問わぬ「非決定」の陥穽に打開の道はあるか
連載・時評「タイムスリップの断崖で」第9回
2006年3月
絓(すが) 秀 実
『en-taxi』第13号(2006.3.27,扶桑社)に掲載 著者の許諾を得て転載
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かつてドゥルーズは「新たな,肯定的な大衆が見出されなければならない」といった意味のことを言ったが,昨年のフランス暴動から今年初めのホリエモン逮捕まで,今日の問題は,誰もが肯定的な「大衆」のイメージを描けないというところにある。
ホリエモンは,あたかも今日の日本資本主義が,必要・必然的に生み出した肯定的な人物イメージであるかのように登場した。しかし,「国策逮捕」であろうこの度の事件は,支配階級がホリエモン的キャラクターを,今はまだ肯定できないでいることをあらわしている(おそらく,全的に肯定しうる時代は来ないだろう)。リバタリアニズムだけでは資本主義はやっていけないということも知っている支配階級は,時々,ブレーキを踏む必要があるということだ。ホリエモンを「我が息子」と持ち上げた自民党・武部幹事長に対して,あなたの実の息子とホリエモンの間に三〇〇〇万円の金銭授受があったのではないかと民主党(当時)の永田議員が「偽メール」をもとに迫り,たちまち「ガセネタ」(小泉首相)と分かってしまうという茶番は,彼らが現代における肯定的な大衆イメージを持てないことを,上手にソフィスティケートして告白してみせるという,「国策的」儀式でもあったのではないかと疑わせる。
小泉「構造改革」路線は,アントニオ・グラムシの構造改革論がそうであったように,ある種のポジティヴな市民=大衆イメージの措定なくしてはリアリティーを欠く。しかし,グラムシのそれが現代のポスト・フォーディズム(=ポスト「市民」社会)の時代ではもはや有効性を失っているのと同様に,小泉のそれも,肯定的な市民=大衆イメージを先送りしていくしかないのである。
アラブ系移民の二世・三世によって遂行されたというフランス暴動は,たとえば,ようやく「マルチチュード」という肯定的な概念を見出したかに見えた左派にとっても,ちょっと途方に暮れさせる問題であり,それは,日本においても無縁ではいられない種類の困難な状況を改めて顕在化させたといえる。すでに報じられているように,その暴動は「権力」に向けられたというよりは,自分自身(の公共物や自動車などの所有物)の破壊でしかなかったからだ。フランス暴動は六八年の五月と比較されるが,後者が今なお続く決定的な「切断」であったのに対して,前者がそのようなものをもたらすとは思えない。もはや,「あらゆる犯罪は革命的である」といった楽天的なテーゼで暴力を肯定しておくことは不可能だと,誰もが認識せざるをえないのである。
いうまでもなく,このようなことは,日本においてもすでに明らかなことであった。イラク反戦運動において「サウンド・デモ」という「新たな」スタイルを現出させた「ストリート系」左派は,アメリカ経由のラップやヒップホップ,レゲイとともに,若年層の「暴力」を肯定的に思い描こうとした。しかし,それらは所詮はクボヅカであり「プチナショナリズム症候」に回収された存在が過半だったのである。ただ,日本では,それが「プチ」のレベルに収まっているがゆえに,それほど問題化するに及ばなかったに過ぎない。
このことは,きわめてヌルいかたちで,今日隆盛な「社会学的」情勢認識において繰り返されてきたものである。一例を挙げよう。雑誌『世界』二月号は,「現代日本の“気分”――どこへ向かうのか」と題して幾つかの論考を掲載している。ここでは,並んで掲載されている二人の社会学者のものを取り上げ比較してみたい。一つは,韓流ブームの「反動」として生起した『嫌韓流』を論じる中西新太郎の「開花するJナショナリズム」であり,もう一つは,格差社会を容認するかに見える若年層を論じる土井隆義の「キャラ社会の構造」である。ここで論じたいのは,二つの論考の妥当性云々ではない,メッセージ性の強い雑誌で同一の特集の下に並んでいる二つの,しかもよく似たカルチュラルスタディーズの手法を用いた論考を並べ比較した時に,見えてくることを問いたいのである。
中西の論考は,そのタイトルからもうかがわれるように,『嫌韓流』が,その「『テクスト様式――解読』の全過程」で「表象のコロニアルな暴力を亢進させ,新たな性格を帯びた攻撃的ナショナリズムの出現を予兆している」ことを論じている。もちろん,若年層の右傾化を批判しているのである。一方,土井は,先の総選挙で若年層が小泉「民営化」を支持した理由を,下級公務員に対するルサンチマンとする見方(私も,この時評でそう言った)に反対して,彼らは「脱力系」であって別にルサンチマンなどは持っていない,ただ小泉以下のキャラ立ち(という「表象」!)している候補に投票しただけだと言い,一定の留保をつけながらではあるが,そこに「ルサンチマンにもイデオロギーにもとらわれない清清しさ」さえ感じている。
ところで,『嫌韓流』を読んでテンションをあげるのも,小泉「民営化」を支持したのも,同一の若年層ではあろう。だとすれば,ここで中西と土井とを同一視するつもりはないが,『世界』というメディアの編集のコンセプトを忖度して読者の立場に立てば,この特集で伝達されようとしているメッセージとは,つまり,嫌韓は悪いが(つまり,靖国参拝はイカンが),靖国に参拝する小泉に投票する若年層は,まあ何も考えていないのだから肯定しておこう,ということになる。小泉と小泉チルドレン(ホリエモンを含む)に投票したにしても,それはシニカルに棄権などするよりは,低熱でノリがいい分だけはるかにすがすがしいと言っているわけだ。しかし,これは,「靖国参拝反対=而して参拝してもしかたない」と言っているようなものではあるまいか。
ここに,現在のリベラル・デモクラシー派のディレンマが露呈している。それは,最初の話題である「暴力」について言えば,「暴力はイカン=而して暴力は革命的である」というディレンマにほかならない。これが9・11以降――それは,二〇〇一年アメリカの9・11であり,そして二〇〇五年小泉解散の9・11である――顕在化してきた状況であり,このディレンマを意識しないでやり過ごす時にのみ,「大衆」への欺瞞的な肯定が可能になるのである。そして,それはブッシュの「平和のための戦争」の論理――それは「平和と民主主義はすばらしい=而して戦争は避けられない」ということだ――と,ほとんど同じなのである(ブッシュの方がシニカルでないだけマシか?)。これこそ,現在のリベラル派がおちいっている「アイロニー」(リチャード・ローティ!)なのではあるまいか。
このことの「起源」は,ある程度確定できる。かつて,ルイ・アルチュセールは「重層的決定」と言った。しかしその場合,マルクス主義者としてのアルチュセールには,「最終的な」決定の審級への信憑だけは確保されていた。ところが,ポスト・マルクス主義たる現代の社会学やカルチュラルスタディーズにあっては,そうした審級を措定できないから,「表象」の解読が恣意にまかされ「重層的な非決定」(吉本隆明)におちいってしまうわけである。つまり,同じ対象であるはずのものが,表象の解読の仕方においてご都合主義におちいるほかはないのだ。現代の社会学やカルスタは,表象の解読が,解読する者の語り方(ナラティヴ? イデオロギー?)によっていかようにも変わることを知っており,むしろ,そのことをこそ方法化していると自認している。だがそこでは,自らの解釈もまた恣意的であるということだけは括弧に入れられてしまう。ここで欠けているのは,実はマルクス主義ではない。「最終的な」立場の決断である。
フランス暴動やホリエモン,ジハードといった「大状況」への判断が決定不可能に置かれる時,もうひとつありうるのは,大問題はさておき,小さな身近な問題から取り組んでいこうぜという,ポストモダン的とも言える態度であろう。だが,はたしてそうだろうか。
昨年の一二月二十日,早稲田大学の文学部キャンパスで,二〇〇一年のサークル地下部室撤去反対運動(これは映画『LEFT ALONE』の背景にもなっている)に端を発した諸問題をプロパガンダするビラを撒いていた人間が,それを阻止しようとする教員によって警察を導入され,逮捕されるという事件があった。事件の経緯とその後の展開については,詳しくはHP(http://wasedadetaiho.web.fc2.com/)を参照してもらいたいが,ビラを撒いていた当該団体との長年のかかわりから,警官導入への抗議運動を当該や他の支援者とともに行っている者として言えば,早稲田大学のリベラルを自称する教員の反応が,きわめて鈍いように感じられる。
私見によれば,たかだかビラを撒いていたに過ぎない人間を見て大学が警察を導入するということは前代未聞であり,この事件をどう捉えて行動するかということが,身近に問われるはずの立場の人間は,早稲田には(その他にも)多々いるはずである。ところが,いろいろ接して聞き取りをした限りでは,かなりの部分の人間が,ほとんど理由にならない言い訳をしながら,シニカルに沈黙し,問題をスルーしようとしてしまうのだ。しかも,そうした人間には社会学やカルスタ系のリベラル左派が多く含まれている。これはどうしたことか。
理由は幾つもあげられるが(自分の身近の問題こそ対処が難しいという,最初に言ったこととは逆の理由もあるだろうが),ここで指摘しておきたいのは,彼らの表象分析という学問的手法が実は,立場への決断を問わぬ「非決定」なのではないかということである。実際,学問的には左翼的な言説を駆使しながら,身近に起こった警官導入に対しては,沈黙をもって事実上肯定するとしたら,これは自らを「非決定」の立場に置いていると見なすほかはないだろう。しかし,これは自己保身とか言行不一致とかと見なすべきではなく,社会学やカルスタといった現代的な「学問」が本質的に抱えているところの,最終的な決定審級への不決断に帰結すると考えうるのである。
忖度してみれば,彼らは警官導入について,次のようにして納得している(事実,以下のような反応がほとんどである)。逮捕された人間は早稲田の学生ではないというではないか。しかも,何やら教員に脅迫めいたことを言ったらしい。それがその教員の誤解であったとしても,とっさにそれを脅迫と受け止めて警官を呼んだのはいたしかたないのではないか。もちろん,警官導入がいいとは思っていない。今後,自分は自分の立場で戦いはするが,今回の問題は「事故」なのだ――云々。
しかしそもそも,早稲田の学生でないと知れたのは事後的に過ぎない(いったい,早稲田の学生以外の者がビラを撒いて,なぜ悪いのか,この問題についてもHP参照)これは,事後的な表象を事前のものと思いなすことである。また,警官を呼んだのは,教員が脅迫されたという思い込み(表象!)を肯定することは,単に恣意に過ぎまい。そもそも,口汚く大声でののしって排除しようとしてきた教員に対して,一言二言くらいは言い返すのが当たり前だろう。脅迫されたと思ったにしても,勝手な思い込みだけで(しかもビラを撒いていたのは一人であり,対して,その場に教職員は十数人いたのだ)警官を呼ぶということが是か非かを,まず問うべきなのである。そして,このような恣意的な表象分析で自己合理化することは,警官導入という決定的な問題から目をそらすだけなのだ。
こうした自己合理化が,いかにもナイーヴとはいえ,社会学やカルスタの表象分析と相即することは,明らかだろう。しかも,このビラ撒き逮捕事件以降,それへの抗議行動(ごくごく穏当なものだ)に参加した現役の早大生に対して,文学部は今度は「学則違反」の名の下に処分を策動している。学外者に対しては警官を,学内者に対しては学則を,というわけだ。もちろん,その学則なるものも,驚くべき拡大解釈がほどこされて適用されるほかはあるまい。文学部の教員に対しては明らかにされているはずの(知らされていないのであれば,私がここで明らかにする),当局のこのような動きに対して,はたして学内教員はどのように応接するのだろうか。
肯定的な大衆イメージが見出しえないことと,いわゆる「知識人」が知識人として機能しえなくなっていることとは相即する現象だし,今に始まったことではない。大学はもはや知識人が生息したり,それを生産したりする場ではなくなっているように見える。同時に,かつて「大衆」が存在しえた場――同じく大学から街頭まで,労働者階級から第三世界まで――にも,それは見出しえないかのようである。しかし,そこに「問題」があるのであってみれば,われわれが,さしあたり「そこ」にとどまるほかないのも確かだろう。つまり,そこには警官が導入されて逮捕者が出ており,それに抗議した学生が処分されようとさえしている,ということである。もちろん,「そこ」は決して固定されているわけではない。
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