「下放」が東アジアにおいて意味したもの



2005年1月

丸 川 哲 史

明治大学教員


すが秀実編『1968(思想読本11)』(2005年1月、作品社)に掲載されたものを許諾を得て転載


中国における「下放」の歴史性  一九六八年は,中国においてどのような年であったのか。一九六六年の紅衛兵の登場から始まる文化大革命のプロセスの中で,その年が一つの曲がり角になっていたことは確かである。ここで注釈が必要だと思われるのは,文革時代を一九六六年から一九七八年の第一一期六全中会までとするにしても,その一二年の間の流れは一様ではなく,たった三ヶ月の間で全く違う相貌を持つこともあり,また文革が及んだ地方格差も無視できないことだ。本稿は,文革それ自体を論評することを目的としないため,あくまで文革の多様な内部そのものには踏み込まないことを予め断っておかなければならない。しかしその上でも,一九六八年は,文革の質それ自体に大きな転化をもたらした年として記憶されていることに間違いはない。

 一九六六年からはじまる紅衛兵運動は,特に学校システムを機能不全に陥れていたが,一九六八年の時点で最大の問題となったのは,中学卒業生の「分配」の問題であり,特に学校に行かず「ゴロツキ」化した若者をどう処理するか,という悩みであった。こういった現象は,毛沢東本人及び事実上文革を操作した文革小組から,さらに実権派と呼ばれた指導者までが認識していた火急の課題であった。当時,一九六六年,六七年さらに六八年組みを加えた中学卒業者は,一〇〇〇万人いたといわれており,そこで一九六八年に始まる「下放」政策が発案されるに到ったわけである。その意味で「下放」は,「分配」機能の不全という一九四九年以来の「社会主義」システムの破綻を表現するという意味では,一つの例外的な措置=事件であったと言える。しかしもう一方では,「下放」は,農村の都市との社会的格差を是正しようとする毛沢東思想の,必然的な運動の一部であったという見方も成り立つ。いずれにせよ,「下放」はおそらく最初で最後の究極の(ほとんど二度はあり得ない)「分配」でもあった。だから,その究極の「分配」=「下放」は,その意味で「社会主義」システムの臨界点を表示する事件だったことになる。以後,都会の若者が地方へと「志願」して移動するような事態は生じていないのだから。

 このように中国における「下放」の年,一九六八年が持つ歴史的インパクトは,根深い文化的問題として,それ自体が孤立した問題圏として横たわっているように見える。基本的には,一九七八年における改革解放政策への転換は,事実上「下放」政策の「誤り」を認めたことを意味した。中国は,一九七八年から文革前のシステムを回復しようとすることになるが,それは長い間「下放」を経てきた(旧)青年たちが続々と都会へと帰還するプロセスを加速し,その中から様々な八〇年代の文化状況が生み出されることになった。そこから例えば,一九八〇年代において,犠牲者の視点から描かれた「傷痕文学」と呼ばれるジャンルの文学が流行することにもなった。さらに日本でもよく知られた事例として,いわゆる第五世代といわれた映画作家たちの諸作品がある。彼らは,「下放」の経験を糧として,映像表現に向かったと言われている。

 しかしそこで問題となるのが,農村からの帰還を果たしていない,あるいはそれが不可能になった,さらに帰還を拒否して暮らしている旧紅衛兵たちのことである。その中には,そこで活き続ける中で子を生んだ者たちもいる。このような人々が抱えた人生は,ある意味では見捨てられた歴史になる。それは,中国内部の問題として「見捨てられた」という言い方が成り立つ一方で,しかしおそらく中国以外ではほとんどあり得なかったという意味においても,空前絶後かもしれない。当然それに似た現象,例えば農村への回帰を目指すインテリゲンチャのロマン主義的傾向は,およそ一九世紀から存在したわけであるが,それが中国のような規模と質をもったことはあり得ないとおそらく言い切れるだろう(さらにポルポト政権下のカンボジアにおけるインテリの運命も考察さなければならないわけであるが,紙面の都合もあり,ここでは触れない)。都会育ちの多くの青年が,いわば農民の労働によって養われながら,つまり邪魔者扱いされながら,しかしいつしか農村に基盤を持って生活し始めていたという,類稀な事例である。

 そういった中国の「下放」経験を日本の一九六八年体験と重ね合わせながら,類稀なフィクションの構成によって,「日本の一九六八」の意味を浮かび上がらせたのが矢作俊彦の『ららら科學の子』(二〇〇三)である。この作品の最大の長所でありまた欠点であるのは,中国の「下放」という枠組みの強さに寄り掛かかりながら,しかし描く対象自体は,「日本の一九六八」だというところにある。この『ららら科學の子』が裏書するのは,「日本の一九六八」は,中国の「下放」に匹敵するような遺産を残さなかったということである。
日本における「中国の一九六八」の意味  「下放」の歴史的インパクト,特に地方に残された「見捨てられた歴史」を扱った文化生産として,文学以外では日本人監督,池谷薫によって撮られたフィルム『延安の娘』がある。二〇〇二年に撮られたこのフィルムは,すべてが現地でのロケによって編まれたものである。歴史的背景はこうである。「革命の聖地」延安に下放された青年たちの中で,偶然にそこで子をもうけるものがいた。当然そのような行為は,当時の「運動」の論理によっては是認されず,結局は生まれた子どもは農家に預けることになり,本人たちは文革の終結後,北京に戻らなければならなかった。『延安の娘』は,そういった歴史的経緯をインタビューを交えて炙り出した秀逸なドキュメンタリー・フィルムとなっている。数年に及ぶ現地取材のもとに撮られた『延安の娘』は,その対象への愛情の深さも含めて,文句なく良い作品に仕上がっている一方,農村に残された娘と父親との二十数年ぶりの再会の「演出」など,日本人の好みそうなメロドラマ風に仕上げられており,若干の甘さを残すものとなっている。ただそういった評価だけに収まらないのは,その娘のために親探しに協力する元紅衛兵の男性の顔立ちが素晴らしいからである。十代で下放されたかつての知識青年の顔は,現地の農民の深い顔の襞と同時に,インテリ特有のすばしっこい目の動きも兼ね備えている。このフィルムを平凡にしていないのは,この紛れもなく「中国の一九六八」の意味を刻み込んだ顔である。

 総じてこの作品は,今の日本人にかつての「下放」の苛烈さ,その根深さを知らせる良質な作品となっているものの,「中国の一九六八」が日本人にとってどのような意味を持つのか,中国人と日本人の間に本当の意味でのコミュニケーションをもたらす生産性を持たないのではないか,と思われる部分もある。つまり,「そんなに大変だったのですか,お気の毒に」という感想以上の反応を喚起し得ないのではないか,という疑念を払拭できないのだ。しかし私の見解はこの場合,決してその監督個人を責めるものではなく,「中国の一九六八」の意味を問うことの難しさ,特に中国に隣接しながら常に「中国」を取り違えざるを得ない日本人のあり様に向っている。

 その意味で,ゴダールの『中国女』と同様に,「中国の一九六八」に対して誤解以外の何物でもないようなところで反応していた津村喬の態度は,むしろその誤解の能動性において歴史的生産性を持ち続けているかもしれない。基本的な津村の文革理解は,主に都市における紅衛兵の視点から成り立っており,「下放」についての言及は,「知識青年たちの新たなコミュニケーション段階への推移(労農の海へ)」と述べるに留まっており,その曖昧さは覆うべくもない。当時の津村,つまり学生運動の先進部分の目的は,戦後体制化した教育機構や日本共産党その他のセクトによって牛耳られているとする「組織」のロジックに対して,生き生きとした「運動」を対置することであった。そして,この「組織」から「運動」へというベクトルが,中国における紅衛兵・造反派による奪権闘争と二重写しになっていたわけである。

 またこのことは,世界(第一世界)における文革評価に連動するものとも思われる。つまり,いわゆる西側「先進国」における文革評価は,一九六八年以前の紅衛兵運動や各都市における奪権闘争に集約されるような都市暴動の文脈に集中するものとなっている。当時津村がアンリ・ルフェーブルの『都市への権利』に拠りつつ文革を評価していたことや,また当時の津村のパトロンとして新進の建設業者,藤田組が彼の支援にまわっていたこともその証左となる。一方このような文脈とは別に,いわゆる第三世界における文革理解(この場合正確には,文革というよりも毛沢東主義理解となるが)は,都市インテリが農村を基盤とするゲリラ活動へと転進していくものとして,「長征」及び「下放」の文脈に接続することとなる。日本では,いわゆる農村(山村)を根拠地とする発想は,一九五五年の日本共産党の「六全協」によって既に敗北宣告が為されており,連合赤軍が採った山岳ゲリラ路線は,さらにキッチュなものと成り果てていた。その意味で,すが秀実が指摘するように,津村がその後の転身として選んだ身体を根拠地とする気功や食文化への傾倒は,まさに「先進国」的な基盤の上に立った発想において「下放」を正しく理解した転身であったと言えるかもしれない。

 しかしそれにしても,「中国の一九六八」,つまり紅衛兵たちが「下放」へと向かわされたこの歴史的回転の経験をどのように受け止めるのか,当然中国内部にいる人間とその外に立つ人間との間には,大きな深淵が横たわっている。まず中国における「下放」の経験は,それと隣接する「労改」(労働改造)というコンセプトとともに把握されねばならない。つまり,「下放」や「労改」は,大枠で言えば人間の本質は変わり得るという,ある種の信念によって成立している。この信念に関して,それを社会主義とも中国的とも,あるいは毛沢東的とも形容はいくらでも成り立つように見えて,そのいずれも十分な説明原理を持たないようにも見える。当の津村にしても,その主著『魂にふれる革命』で提示したのは,「魂を変える」ことではなく「魂にふれる」だったのであるから。

 魂を変えるのでなしに,魂にふれることはどういうことであろうか。それは一種のやさしいあきらめを含んでいる。アーノルド・ウエスカーの《大麦入りのチキンスープ》のせりふを使えば,「人間を変えることなんかできやしない。愛してやればいいんだ」というのがこの「ふれる」ことである。「通じあえぬもの」,生きられたものに革命が降りていくことをよりPositiveに言えば,「交通形態そのものの生産」(《ドイツ・イデオロギー》)ということである。
 あきらめて,愛すること,それが私にとっての現代革命の主体性(つまり組織的)条件のすべてである。

(『魂にふれる革命』ライン出版,一九七〇年,八九頁)
 中国内部にあってはむしろ「魂を変える」革命であったものが,その外側においては「魂にふれる」革命となるこの断層をどう捉えればよいのか。それを単に,「先進国」と中国との差異に還元するのであれば,話はあまりにも簡単である。また,津村のそもそものモティーフとしてある「第三世界」論の抽象性をあげつらっても仕方のないことであろう。ここでさし当たっての史的前提としておかなければならないのは,形式においても実態としても日本と人民共和国との間に国交がなかった事実である。津村の言う「通じあえぬもの」,「交通形態そのものの生産」という言葉は,明らかにその事実と呼応している。日本における中国を媒介とした思想的営為は,江戸期における漢学者の内部変革運動を振り返る必要もなく,中国との「交通形態」のあり方に依っている。そして「中国」を媒介とした日本の戦後思想における革命観もまた,そうなのである。重ねて皮肉なことに,日本の思想界は,一九七二年に日中国交が回復され,一九七八年に日中友好条約が締結されるとともに,むしろ「中国」の文脈にかかわるポテンシャルを減じていくことになる。その意味で,形式上は国交を回復し,戦争が防止された関係にある今日においてこそ,実質的な「交通形態そのものの生産」が望まれているとも言える。だから,津村が「生きられたものに革命が降りていく」と述べた文脈は,日本の知識人が己自身の社会の変革運動を目指す際に,それが常に中国との「交通形態」を模索するプロセスの反復の中で生じてしまう潜在的文脈を物語っているように思われる。
もう一人の紅衛兵  中国との潜在的な交通形態ということで言えば,台湾において心の中で「紅衛兵」を任じていた作家,一九六八年から約七年間下獄することになった台湾作家,陳映真〔チェン・インジェン〕のことを思い起こさざるを得ない。ある意味,彼の下獄は,裏パターンとしての「下放」のようでもある。一九七〇年代前半まで,台湾において第三世界文学として台湾文学を捉える「左派」たることは,そのまま監獄行きを意味していた(彼がかかわっていたのは,単なる読書サークルであったようだが)。後に陳映真がかかわることにもなった一九七〇年代後半の「郷土文学」論争においても,陳映真等の作風は,保守派(モダニズム派)から,台湾の現実,台湾における社会矛盾を描くことそのものが「工農兵文芸」であり,毛沢東の「文芸講話」路線に呼応するものとして指弾されていた。その意味で,台湾の文化状況は,明らかに大陸の状況とも連動していたのである。

 さて彼が下獄していた数年間,一九七〇年〜七二年は,台湾の社会運動においてはとりわけ興味深い時期であったと言える。この期間,アメリカ合衆国による人民共和国の承認と,人民共和国の国連への進出にともなって,台湾(国民政府)は,アメリカ,日本との断交,国連からの脱退と相次ぐ対外危機を迎えていたが,それに加えて急激な経済成長が台湾内部のグロテスクな不均等発展を促進していた。そういった危機的状況において最も運動として焦点化したのが,「保衛魚釣島」運動である。沖縄の日本への返還(「沖縄返還協定」)にともなって,中国(台湾)の領土と認識されていた尖閣諸島(中国・台湾では釣魚台と呼ばれている)が,アメリカ合衆国によって日本の領土とされた衝撃に前後して,戦後台湾において空前絶後とも言える民衆・学生による,国府政権への糾弾,アメリカ大使館への反米デモが発生していた。外交問題が自国政府批判にもつながる,この釣魚台運動は,五・四以来の中国革命のパターンを彷彿とさせる事件でもあった。ちょうどこの時期,陳映真は下獄していた。そして下獄した彼の動向は,広く運動圏において意識されていたのである。

 このことを思い返すのは,陳映真という作家を英雄化したいからではない。今日の台湾の政治状況においては「統一派」というレッテル張りによって片付けられかねない陳映真という存在の,その歴史的代表性を確認したいだけである。彼の人生は,台湾にいながら,さらに台湾にいるからこそ「中国の一九六八」を体現してしまっている。つまり彼の人生は,明らかに「中国の一九六八」に連なるものでありつつ,しかし決して大陸中国人によって代換し得ないあり方としての「中国の一九六八」であったのだ。日本の場合においては,左翼の革命モデルとして認識されることが主流だった「中国の一九六八」と対照に,台湾の陳映真という作家において生きられた「中国の一九六八」の意味は,またその幅の大きさ,あるいはその盲点を考えるための一助になるものとも思われる。
(おわり)


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前田年昭 MAEDA Toshiaki
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