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はみだし者たちの時代
灘高闘争と中島らも
2005年1月
前 田 年 昭
日雇編集者
すが秀実編『1968(思想読本11)』(2005年1月、作品社)所収
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けがれてしまった自分自身への嫌悪という感情は思春期にありがちだ。世界がビートルズとベトナム反戦運動でうまっていた三十数年前の僕の気分もそうだった。
少年から青年になろうとする時期の自己嫌悪,自分のなかにしみ込んだ汚れのようなものにどう向き合うか。知識を服をまとうように外にまとって自分を高めるという考え方になじまなかった僕は,対極の,心をみがくという考え方も恥ずかしくて嫌だった。
進学校・灘に中学から進学したいささか早熟な僕は,中国の文化大革命や日本の全共闘運動にその答えを見出せるかもしれないと感じ取っていた。行動して,考えて,また行動する。在日朝鮮人や部落民の視点からそうでない立場の自分自身を,アジアから日本を,見つめなおす。在日朝鮮人という視点,部落民という視点,身体障害者という視点……。異質な他者の眼から目をそらすことなく,自分の知らない現実のなかに自分自身を置こうとした。
ベトナム戦争に対して反戦をいうことは何か。遠くベトナムにお金を送ったり署名したりすることだけでは欺瞞的である。自分自身を問わないからだ。ベトナム侵略に加担している日本のなかの基地や軍需産業に対して実際行動を起こすことでなければならなかった。足元を問うこと。社会の変革への道すじのなかで自分自身の変革,生まれ変わり(翻身)もあると思った。
一九七〇年六月の灘高校における三日間のストライキは,試験制度廃止を掲げ,学校教育の秩序の根幹をゆるがした。学校出が幅をきかせる社会,上へ上へという生き方を問い直し,自分自身をゆるがした。中国では,いわゆる知識分子はこっけいなほど幼稚で,労働者こそが英雄だとの毛沢東の教えにならって,若い紅衛兵たちは僻地の農村におもむいていた。そして僕は高校三年の春,中途退学した。野良仕事,山仕事から土方,と,不安定で,単調な,反復労働の現場に身を投じた。建築雑役,石工,鉄筋工,窓ガラス拭き,アドバルーンあげ,金属刃物加工……。
その直前,ストを主導した僕たちはよく神戸のジャズ喫茶「バンビ」にたむろしていた。受験技術教習所としての灘高の“期待される高校生像”からはみ出した者たちのたまり場だった。今夏,急逝した中島らもさんは一学年上のそんな仲間だった。彼の学年と僕の学年が,大学ではバリケードが次々解かれていっていたころになって登場した“一周遅れの全共闘”の中心だった。
彼はローリングストーンズが好きだったが,僕はビートルズが好きだった。彼の好きな詩はボードレールだったが,僕はランボーだった。読む漫画雑誌は彼は「COM」,僕は「ガロ」だった(はじめの二項は確かだけど,これは捏造した記憶かもしれない?)。今にも増して性急だった僕と対照的に,らもさんは当時からゆっくりした牛さん喋り。ことごとく対照的ではあった。
普通,その年頃の年齢差一年はかなり大きいのだが,らもさんは先輩風を吹かせることなく優しかった。それだけ大人だったということだろう。後輩に対しても同じ高さの目線で接してくれていた。
今振り返ってみると,根っからの活動家であった僕などよりらもさんのほうが,時代の精神としての全共闘の魂を持っていたのではなかったか。つまり,群れのなかにはいたが,群れない,徒党を組まなかった。宗教とか主義とかの砦のなかで「楽」するのではなく,ひとり嵐のなかへ出でよ,とその目は優しく語っていた。
らもさんは書いた。「デモをしても集まるの,せいぜい八人や。ヘルメットしてマスクしててもチョンバレ。花輪や,八幡や,前田や」と。思想が生きかたではなく,一時のファッションに堕してしまうことは僕も嫌いだったはずだ。しかし,ヘルメットに覆面というカッコウ自身を問う目を持っていたかといえば,否だ。らもさんはその視線を持っていた。僕らの群れのなかに彼のような仲間もいたことはとてもよかったと今おもう。
あれから三十四年,イラクで日本人が殺された。十分なお金も持たず,むこうみずだと非難する声はあまりにも冷たい。全共闘の時代,「バンビ」やそのまわりの仲間,多くの若者たちは,口先だけでなく,書を捨て街へ出た。お金も持たず,準備もそこそこに出かけていく。むこうみずだと眉をひそめる大人たちはいた。しかし,「自己責任論」をふりかざした非難が若者たちの間から起こるようなことはなかった。ヒッピー・ムーブメントも広まった。世界へ足を運んだ。そうしていま,この社会は少しは風通しがよくなってきたのではなかったのか。僕はアメリカは嫌いだが,イチローの活躍に拍手するアメリカの人びとを見ると,日本ではあんなに素直に拍手しないだろうなとおもってしまう。日本はまだまだ偏狭で,息苦しい。
灘高闘争から三十四年を経て,僕は編集者としてらもさんと再会し,インタビューが「ユリイカ」に載った。四か月後,彼は階段から落ちて急逝した。
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| (おわり)
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