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中島らもインタヴュー
憂鬱とお笑いの星の下に
2004年5月
聞き手・構成=前田年昭
編集者
『ユリイカ』2004年5月号 所収
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―― 中島さん,ご無沙汰です。もう三十二,三年になりますか,神戸のバンビいうたまり場で同席してたころからは。ぼくは,先輩の『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』(一九八九)のなかで,灘高の全闘委(全学闘争委員会)の中庭集会のひとりとして書いてもろたことがあったんですけど,当時から,らもさんには灘高という受験校にいてても“調教”されきらんもん同士としての親しみがありました。
きょうのテーマは“うつ”なんですけど,『ユリイカ』は去年「煙草異論」いう特集(一〇月号)やって,らもさんも書いてはったけど,長原豊さんが(すが)秀実さんとの対談で,六〇年代末から七〇年ごろの全共闘や新左翼の活動家はシンナーとか薬とかやっているもんを軽蔑してたとおっしゃっててね。ぼくはむしろ,親近感いうかおんなじ仲間やいう意識があったんです。
中島 あの時代いうのは,左翼運動の末尾ですよね。六〇年代から新宿にフーテンというのが出てきて,それでいわゆる睡眠薬遊びとか,シンナーをやったり,大麻やったりとか,してましたね。その後追いでヒッピーいうのんが出てきたんですよね。ヒッピーというのは,愛とか平和とか自由とか,いわゆる理念とか思想とかがあるんですけれども,フーテンというのはまったくそういうものはないですよね。ただラリってるだけ。
当時は新聞部の部室に溜まっていましたけれども,おれ以外は全員左翼だった(笑)。おれはボードレール読んでいるような子でしたから,まぁ,ボードレールと左翼って関係ないですよね。むしろ反対やといっていいでしょう。それでも,あの部屋ではみんなタバコ吸ったり,それから睡眠薬,ハイミナールとか,ベンザリンとか,オプタリドンとか,ニブロールとか,そういうものをやってラリって,酒も飲んでました。シンナーも吸ってましたね。ですから,ことあそこにおいては,左翼も全員ラリってデモをかけてたと言って過言ではない。
一部の左翼の活動家からみれば「堕落したやつらや」ということになるんやと思うけど,それは一般企業のサラリーマンとか,体制の側から見る目とおなじ見方しているんですね。体制側もおれらを堕落した生産価値をもたない人間ども,「社会のゴミ」という言い方をしていましたから。
―― 全共闘運動があんなに面白かったのは,左翼運動としてというより,社会のゴミや言われたもんのお祭り,叛乱やったいうことやね。とくに,「一周遅れの全共闘」っていわれた灘高の学園闘争(一九七〇年六月に三日間全学ストライキ)は,大学叛乱が鎮圧されてしもたあとで,反権力運動は負けが込んできたころやったけど,五つか六つの学内セクト(党派)も内ゲバもせずに仲良かったし,右翼の日学同とも肩組んでたぐらい大衆性ももちあわせてたし……。中核派系やったSちゃんにしても,はっぴいえんどと遠藤賢司が好きな心やさしい人やったしね。
中島 バンビいう喫茶店は悪いところで,おれらよくね,マッチに火ィつけて,向こうの机の友達に飛ばしたりしましたね。トイレの窓から下のひさし見たら,睡眠薬の空箱が,うずたかく……,置いてあるんではなく,うずたかく積もってあるわけですよね。まあそういうあれで,大体みんなジャズ喫茶でラリっていましたね。
―― その後,らもさんは,印刷屋の営業をしはるわけやけども,印刷の営業ではいちおう,「この紙は上質の七〇キロや」と触ってわかるとか,したはったわけですか。
中島 はい。今でもロックのライブのときに作るビラとか,こうぱらぱらっとめくって,「四六(四六判)の一一〇キロや」とか全部わかりますね。あと,印刷屋をやっていたものですから,雑誌作る工程というのが全部わかるわけですよね。で,編集者いうのは,だいたい十日ぐらいかまかけてきますよね(笑)。
締め切りが一〇日やとしたら,一二日ぐらいになって,そろそろ書き始めようかなと思って。校正がでて,それから刷版して,製本は何日で,東販・日販(流通)が何日で……,全部わかるから,締め切りには遅れますが,落としたことはないですね。
―― 印刷屋にいたはった時は,チラシみたいな端物〔はもの〕だけやなしにページ物もしたはったんですか。
中島 パンフレットとかけっこうやりましたね。
―― らもさんの作品の中でもでてきますしね。『永遠も半ばを過ぎて』(一九九四)は電算写植のオペレーターが主人公で,巻末の参考文献に写研の書体見本帳が挙げられてたり,本文でも「二〇級ナール正体ツメ」とか「本文をゴナのぶら下げ組みで」とかでてきたりするのんが,ぼくも写植屋をやってましたから,すごい親しみを感じました。写植屋さんもDTPに押されてなくなってしもたけどね。
中島 そうですね,『永遠も半ばを過ぎて』を書いた時点で,すでに電算写植って時代遅れになってたんですね。
―― 七年前に『永遠も半ばを過ぎて』を中原俊監督が映画化した『Lie Lie Lie』,あれをちょうど,廃業寸前と転業寸前の写植業者仲間で観にいきましたもん。
中島 そうですか。昔はね,みんな活版だったんですよね。明治,大正,昭和の作家でもいろいろいて,きちっと浄書して書いて出す作家もいれば,万年筆で書いたとこから線ひっぱり出して,長い追加文書いて,まだ足らんから裏にも書いてというような人がいて,いっぺん校正刷りだしたあとの組版のひと大変でね,全部やり直しに近いから。そういう人もけっこう多かったみたいですね。
―― 『灘高新聞』も当時は活版で,新聞部員やったぼくも印刷所に出張校正に行ったことがあります。その現場には,いろんな業界紙だけやなくて新左翼の党派の機関紙からも校正に来てた,そんな時代でした。
中島 あの当時ね,おれは図書部だったんです。
―― あーそうやったんですか,それは知らんかった。へぇー。
中島 なんで図書部に入ったかというと,本を盗むためなんですよ。図書館て二階にあったでしょう。それで,一階の庭の所にYとかHとか四人集めといて,でかいふろしきみたいの広げさせて,『リルケ全集』とか高い本みな窓から,ぼんぼんぼんと放り投げて,下で受け止めてというのをやっていましたね。
―― でもそれは売るのんと違うんですよね。
中島 はい。読むため。売らないです。当時は,シュルレアリスムとかブームで,ダリとか,ルネ・シャールとかいろんな人のもんが,非常に豪華版で出てたでしょう。
―― 欲しい本は高い本ばっかりでね。
中島 四二〇〇円とか。そしたら,もうパクるしかない。
おれは作家になる気というのは毛頭なくて,実際ずっと印刷屋や広告代理店の営業マンをやってたんですけれど,二七のときに突発的に,なんか書き出して,それを自費出版したんですね。製本せずに一枚ずつのカードにして,箱で包む形式にして。わざわざ活版で清刷りを刷ってもろて,それを白黒反転してオフセットで刷って,それで出しましたね。活版の味は好きだったからね。一〇〇部だけ刷りました。
―― 詩集ですか?
中島 いえ,散文です。『すべての聖夜の鎖』っていうタイトルです。文藝春秋から限定版で復刻が三年程前に出まして。
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躁の万能感と“笑い”の技術 |
―― 「三〇歳でうつ,四〇歳で自殺未遂,四二歳で躁に転じて…」というらもさんご自分の体験を書かはった『心が雨漏りする日には』(二〇〇二)の中で,「躁のときはものを書けない。とてもじゃないが原稿用紙を一字ずつ埋めていくというような根気のいる作業はできないのだ。うつの時には心の中は暗黒の闇だが,なんとか仕事はこなせる。躁のときとは対照的である」って,それは最初からそうやったんですか。
中島 そうですね。うーん,躁状態のときいうのは,まあ,言やぁシャブ打ってる状態ですね。コカインを吸っている状態に近いものがあって,万能感があふれてきて,とめどもなくアイディアが出てくるんですよ。それで,編集の人に五社ぐらい来てもらって,お宅にはこういうものを書く,お宅にはこういうものを書く,これは四月まで,これは六月まで,これは八月までとかやっているわけですよ。やがて,躁状態が去るでしょ,約束だけが残るわけ。大変なんですよ,そっから。
躁のときは不思議なことがいっぱい起こるんですね。アポーツ,物品引き寄せ現象っていうんですけども,おれの場合は山に関連した一升瓶が身の回りに集まってくる。タクシーで行くと道端にポツンと一升瓶が置いてあって,まあカラ瓶なんですけども,「ちょっと止めて」と言って,その一升瓶拾ったら,「山娘」という酒だったり,あるいは「猩々」とか,山関係のものがどんどん集まってくる。
―― 海は集まらんのですか。
中島 いっさい集まらない。それはね,その前(一九九四)ちょうどバリ島へ行っとったんですよね。そこで,躁転して躁病になったんですけれども,バリ島には,山いうのは聖なる地,海は邪悪なものが集まる,その中間の陸地に人間は住んでるいう,そういう世界観があるんですね。で,実際に山ん中にできたお寺とか行ったりして,それに影響されたせいか,“山”という概念がすごく残っていたんですよ。そうしたら,急に集まりだしたんですよ。自分でも不思議だったですね。ユングなんかはシンクロニシティ,意味のある偶然ということを言っていますけれどもね。実際にそういうことを体験したのは,躁病のときが初めてですね。
―― 『心が雨漏りする日には』で,四〇歳ごろ,あるイメージが頭を離れなかったと書いたはりますよね。その,「黒ヘルとか連合赤軍が,新宿で殺し合いをしている。道路のマンホールの鉄製のフタの上に相手の頭を固定して,でかいハンマーを振り下ろしてドシャーと潰してしまう」イメージいうのは,どういうところから来ていたんですかね。
中島 テレビニュースだと思いますけどもね。新聞で読んだかもしれないですね。なぜ突然そんなイメージが出てきたのか,わからないですけれども。最初は三日に一回,そんな感じやったんですけども,徐々に頻繁になっていって,最後には五分おきぐらいにドシャーという,そのイメージがでるようになって。それなのに,友達の結婚パーティーなんかに出ているんですよね。で祝辞を述べて満場大爆笑の祝辞を言ったり,しているんです。でラジオの深夜番組のコントを,がーっと五分ぐらいで書いたりね,してるんですね。でも心の中は真っ暗闇なわけですよ。なぜそんなことが可能かというと,それは商売だからですよね。ノウハウだけでやっているわけ。わらじを作るのがうまい人は,いつでもわらじは作れる。というのとおなじことで,技術だけでやってたんですけれどもね。
さいごにとうとう自殺念慮がでてきて,近所にタクシーでちょっと行ったところに,二〇階建てぐらいのマンションがあったんですね。そこを前,仕事場にしてたんですよ。「あのマンションから飛び降りたら絶対大丈夫だろう」と。その時の仕事部屋というのは,五階建てのマンションだったんですね。五階建てじゃ下手したら死に切れないなと思って,よしタクシーでいこうと,二〇階建てに。でもって立ち上がったとたんに全身から冷や汗がだーっと出だして,あぁ本当におれは死ぬんだなと思って。そん時に,マネージャーのわかぎえふが入ってきた。で,彼女の顔を見たときに,あ助かったと思って,もうポリボックスでもいいし,病院の救急でもなんでもいいから放り込んでくれと言って,助かったんですけれども。本当に三秒か,五秒差ぐらいですね。
―― らもさんの仕事と“うつ”ということでは,“笑い”と“うつ”と関係あるんでしょうか。ぼくは桂枝雀さんの落語が大好きやったんですけれども,自殺してしまわはったでしょう。“笑い”を徹底的につきつめていくと,“うつ”になってしまうんでしょうか。
中島 どうなんですかね。たまたま成り行きでおれの仕事が,“笑い”を扱うものだったんで,そのノウハウというのはいろいろ考えていましたけど。アホ系統,きちがい系統,とかね。笑いというのは,根本的には,差別なんですね。優者,まさったものの,劣者,劣ったものに対する瞬間的な優越感の爆発というのが笑いだ,と。これはマルセル・パニョルという人の分析ですが,ベルグソンの笑いに対する分析よりはるかに正鵠を得てます。
どっちか言うとおれは,ぶっとんだシュールなもののほうが得意ですけども。たとえば回転寿司に行ってふつうに食べてても,いつも頭のどっかに人をどうやって笑わせるかということが引っかかっていますから,このまわってる寿司のコンベアの上に何が乗っていたら,いちばんおかしいやろと考えるわけですね。相撲取りというのはどうやろうとか,電車も乗せようかと。そういうふうになってくるわけです。
根本的におれは思春期以降,ずっーと軽い憂鬱が根底にある,ベースとして憂鬱がある人間だったんですよね。だから,それを解消するために,冗談を言ったりして友達を笑わす人間になっちゃったんです。で,それは後々,自分が小説を書くのに役にたったんですけどもね。
―― 友達を笑わせる技術がノウハウとして蓄積されたいう話は,すごい分かりやすいです。小説にしても,芸事なんかみたいに“何とか道”みたいな深遠なるものがあるわけやなくて技術だという,ぼくもそのとおりやと思います。灘高のことをぼくら全闘委は「灘受験技術教習所や」と名づけてたけども,まあそのとおりやったわけです。ある先生から「きみはこの学校へ来たんが間違うてたんや」と言われたぼくは,あぁなるほどと得心がいったから,とうとう中途退学して現在に至るわけで。
中島 ま,あそこは,言うたら陸軍中野学校みたいなもんですよ。
―― そういう意味からいえば,まったりしたダウナー系やなくて,受験に依存した覚せい剤漬け社会いう感じやったですね。
中島 非常に明瞭だったでしょう。前の年に東大に百何十人通った,今年は何人やったとかね。ようするに半分以上は東大行くために来ている。後は京大,阪大の医学部やね。目的は一緒だから,校内暴力とかそういう問題なかったじゃないですか。
―― なかったですね。学校側のキャッチコピーで,スポーツも勉強もできる「黒い秀才」いうのがあったけど,無理強いして勉強させるような,直接的な管理している感じはなかったですね。
中島 ばかばかしい規則はなかったですね。東北のほうに行ったら,いまだに校則に「股火鉢すべからず」とか,書いてあるのあるんですよね。いま,どこに火鉢があるねん。
神戸の校門圧死事件(一九九〇年),朝の門限間際に教師が閉めた門と柱にはさまれて生徒が殺されたやつね,あの時に,『朝日新聞』でいろんな教育の現場の人にインタビューした記事があったんですよ。その中に一人だけ,某公立校の先生が,「うちの学校は社会の即戦力〔,,,〕となり得るように生徒を教育している,だから規則を遵守することを学ばせるようにしているんだ」と言っていた。この先生は正直な人で,ぽろっと本音はいちゃったと思うんですね。普通は人格を伸ばし,個性を伸ばしとか,いろんなこと言うじゃないですか。講堂行ったら,愛とか自由とか書いてあるでしょ。そんなんだったら,校門の表に「社会即戦力養成所」と書いときゃあいい。きれいごと言わんでね。そうでないと,間違って入った,クリエイティブな才能をもった子どもがかわいそうじゃないですか。
―― らもさんは灘高行って,図書室の本もいっぱい読めたし,よかったわけですよね,随分自由なところでしたし。
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酒びたりのなかでも“お笑い”のサガが |
中島 やっぱ二〇年やっていると,“お笑い”がサガみたいに染み付いててね。このあいだ大麻の裁判あった後,裁判官の心証よくするためにね,躁病だったから大麻に手ェ出したということにしようというので,精神病院に入院していたんですよ。総合病院ですから,精神科もあれば,外科も内科もある。
車椅子の人がいっぱいいるでしょう。この車椅子のアームのボタンをおしたら,ガチャっと日本刀の刃が二本出るようにして……,それやったらこのアームに,マシンガン,Mを二丁つけて,両脇にバズーカ砲をつけて……,それでやくざの組に殴り込みをかけて,皆殺しいうのはどうやろ,というのを思いついちゃったんですよね。今書いてるんですがね。あと百枚で終わりなんですけれども,「酒気帯び車椅子」いうタイトルで。エンターテイメントは五〇歳でやめやと言ってたのにね,やっぱり出ちゃうんですよ。
―― 大麻事件でシャバに出てからのほうが本の点数増えているんちがいますか。
中島 偶然たまっていたんですよ。
―― そしたら,拘置所はちょっとええ休養になったということですか。
中島 そうですね。酒は抜けたしね。身体に悪いもんは全部抜けましたからね。まあ,大麻って本当は身体にいいんですけれどもね。だいぶリペアして帰ってきた感じですね。
―― ひとつ聞いてもええですか。今,お酒とか,タバコとか,薬物いうのは,どないな摂取状況ですか。インタビューてゆうより医者の問診みたいやけど。
中島 朝起きてまず,精神科から処方されている精神安定剤,二種類と,血圧が高いので血圧降下剤を飲みます。夕方もほぼ似たようなものを飲みます。寝る前は,かなり強力な睡眠薬を飲みます。そのほかに,朝起きるとまずタバコ(ピース)を六本吸いますね。それから,コデインという薬をとりますね。これは,精神がなだらかになるものです。鎮咳薬です。だいたい一二時に起きたら一時ぐらいから書き始めて八時ぐらいに終わって,それから日本酒を飲んで,四合か五合くらいですね,毎日。ただ,外へ行くと多くなりますね。つい,もう一丁いけっていうノリになっちゃうんで。あれはもう集団的狂気ですね。
―― お酒は日本酒が多いですか。
中島 日本酒が多いですね。
―― 千円でべろべろになれる居酒屋を探訪するという『“せんべろ”探偵が行く』(二〇〇三)って本も出してはるんやけども,ぼくは東京来て二十年以上になるんですけれども,東京はコップ酒はあってもコップに半分ついでくれるところはないんでしょうか。
中島 東京では聞いたことないね。
―― 大阪や神戸やったら,「酎半丁」いうて,焼酎をコップの半分ちょっと,五五パーセントぐらいまで入れてくれますね。そうすると,酎半丁二回頼むと一合より多いから,なんか得したような気になるわけ。東京では受け皿にこぼれさせるとか,あるいは枡の下にまたお皿とか,何重にも重ねるのが多いような気がするんですけども。
中島 新世界(大阪市浪速区の通称ジャンジャン横丁)へ行くと,“二合で三合”という店があってね。二合頼むと枡で三合出てくるんですよ。これ,面白いから三回おかわりしたんですね。したら,九合飲んでるわけや。短時間に九合飲んだから外出てぶっ倒れましてね。そしたら,浮浪者の人が寄ってきて,「にいちゃん救急車よんだろか」って言うんですよね。チップが欲しいんよね。いや,いらんいらん言うて。
あと倒れたのは,野坂昭如さんと『FRIDAY』で対談したときで,ちょっと緊迫した事情でね,おれが野坂さんに果たし状出した,その結果の対談なんですけどね。果たし状受けろ,受けないみたいな,お互い小説三十枚書いて発表して,読者の評価によって勝敗を決めて,負けたほうが筆を折るっていう非常にシビアな条件だったんですけれども,その話をしてた時に,冷酒の三〇〇ccを五本で一五〇〇cc,ほぼ一升飲んで。その時,腰抜けちゃって,野坂さんに担いでもらったんですよ。肩かしてもらって,おうちまで連れてってもらって,それで応接間,すごい綺麗なシャンデリアがあるんですよね。綺麗な店やなと思ってて,で,奥さん出てらして,あーママも別嬪さんやなぁと思てまして,野坂さんが鉛筆と鉛筆削りと原稿用紙と持ってきてくれて「これで書け」といって,で,ホテル帰って二時間だけ寝て,その後,書きだしたんですけれどもね。テーマは「らっきょ」といったんですけれども,まあ無効試合になりましたけれどもね。
あの時は躁病気味でしたね。精神科へ通っていて,薬を待つ間に『週刊文春』読んでたら,野坂さんの連載しているエッセイがあるんですね,「もういくつ寝ると」という。それを読んだら,明らかに酔っ払って書いてるときのあれで,もうドロドロの状態で書いている。毎号読んでたけど,普通の文章じゃない回もあるわけです。その病院いった時に読んだのは,私はもう六十何歳だと,六十何歳ということは,文壇においては体制側であると,その体制に若い者がなぜ向かってこないのかと書いてあるわけ。「野坂さん,ちょっとやばい状態やな今」と思ってたとこやから,こういう時はやっぱり何かせな,二人とも立ち直られへん,と。おれもがたがたやったもんですからね。それで果たし状書いて出したんですよ。なんかアクションしないとダメやと思って。
『心が雨漏りする日には』の巻末で芝伸太郎いう精神科の先生と対談してますけども,躁病というのはうつ病の悪化したものであるということを芝さんはおっしゃってるんですね。それまで,おれは全く反対の考え方していて,うつ病の対極にあるものが躁病なんだと思っていたんですけれども,そうじゃない,うつ病がさらに悪化して“躁転”するんだと。
→中島らもインタヴュー(後半)へつづく
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