日本のマルクス主義を毒しているものは,プラグマティズム的な解釈学である
現在,日本のマルクス主義を毒しているものは,プラグマティズム的な解釈学である。一時のように公式的にではなく,具体的に,しかも階級的な立場で現実が説明される。そこには,複雑な諸条件の分析もある。対立の統一もある。論理としてはすこしもまちがっていない。しかし,それがプラグマティズムであって,弁証法―マルクス・レーニン主義となることができないのは,そこに主体が,階級の原理が,かけているからである。主体の原理が,さまざまな矛盾や対立をとうして自分を展開していく運動の形態がぬけたとき論理は形だけのものとなり,ソフィズムとなる。社会現象は,それが重要なものであるかぎりは,かならず,階級主体の原理の運動形態のなかにくみこまれ,主体の《構造》の一部となっているはずである。それは,その構造によって再生産されるとともに,構造を展開させるものとなっているはずである。だから,ある現象を主体の構造からきりはなして独立した現象と考えるなら,そこにプラグマティズム的解釈学が成立する。それは,論理の遊戯である。なぜなら,そこには論理を展開させる主体がないからである。論理は原理をもたないからである。そこで日本のマルクス主義が,しばしば,その公式主義のゆえに非難されるのは,それがこうしたプラグマティズムに転落しているからである。革命を論じるときも,平和を語るときも,多くの場合,このような意味で主体がぬけおちている。たとえば,構造改革的路線で独占を孤立させたり,民主民族戦線で人民の多数を獲得すれば,それで革命ができるようにいわれている。つまり,客観的な目標だけがいつも問題になって,主体はわすれられている。いや,主体も,もちろん,問題にされてはいる。それぞれの路線の人々は自分の路線こそ大衆の階級的自覚をたかめ,階級的に訓練するものだと主張している。しかし,こうした発想は,おくれた大衆を啓蒙するための《手》としてのものでしかない。これこそプラグマティズムだ。大衆を階級的にひきあげようとすることが,なぜ「手」なのか。なぜなら,そこには,主体の原理がないからである。主体の原理からはなれて,主体の啓蒙や訓練を考えることは,「手」を考えることであり,無原理なプラグマティズムである。路線のなかで主体と客体とのあいだに相互作用がうまれることはいうまでもない。しかし,そこで相互作用するものは,単なる主体ではない。それは,ある特殊の構造をもった主体なのである。革命主体は,自分の階級的原理を展開し,階級として自分を形成していくときに,それは必然的にある一定の運動形態,その特殊の構造をもつ。したがって,相互作用といっても,それは,具体的な一定の時期に階級原理が展開していく一定の運動形態のなかでの相互作用である。主体の特殊の運動形態をあきらかにしないで相互作用を語ることはできない。ところが,日本の革命を論じる多くの人々は,「階級的原理のもつ一定の運動形態」など夢想もしたことがないようである。それは,あれほど多く労働運動について語られながら,労働が資本と対立したときにとるその一般的運動形態さえ,我国ではほとんど問題にされたことがないことからでもあきらかであろう。労働原理の展開形式も知らないで,具体的な労働問題を論評するとは,あまりにも馬鹿馬鹿しい。子供でさえ,語学を学ぶときは文法を知ろうとする。ところが我国では,原理なくして運動を語るこのようなおろかさが批判として通用しているのである。
- 藤本進治「日本のプラグマティズム」,『マルクス主義と現代』せりか書房,一九六九年一二月,一九九―二〇一頁