共同討議 暴力の現在
自然発生性とスローガン
略
市田 僕は,「戦争機械」という概念で一番に思い浮かんだのは,『仁義なき戦い』なんです。金子信雄の演じる親分が,正しい政治の在り方や外交の世界を代表しているのに対して,菅原文太の演じる広能昌三が戦争機械なんですね。そういう直感として,とてもよく理解できます(笑)。くだらない外交や政治をなぎ倒してしまうものとして戦争機械はある。しかし,広能昌三は勝つわけではない。親分衆のロジックを蹴飛ばしてしまうのですが,だからこそ逆に勝利の地平がない。そのイメージに重ねあわせることはできる。
佐々木 勝利というのは定義上,国家装置のものです。が,戦争機械が敗北するものであると定義することはできない。
市田 それ以降問題になっているのは,では戦争機械に依拠し続けることはできるのかということです。大衆運動は,なんらかの目標を個別に持つことを前提にするから成り立つ。個別のものでしかない。ことによっては,どこかで矛を収めなくてはいけない。ここで収めておく,ここで収めてはいけないという線が出てくる。引き受けるのは非常に困難な矛盾が,戦争機械にはある。
佐々木 この議題で何故僕が呼ばれたのか判らないのですが,何度もお誘い頂いたので聞き役になりに来ました(笑),少しだけ。暴力自体が政治の主題になり得ないというのは,原則としてその通りです。確認ですが,暴力即戦争機械と言うのは不正確ですね。暴力の行使のプロセスは,実はそれ自体の内部に「暴力とは何か」を定義する手続きを含む。だからこそ,それは「機械」なのです。純粋な暴力,ラカン的な語彙を使えば「絶対的享楽」としての暴力の享楽は直接的かつ自明のものとしてあるのではない。戦争機械はアレンジメントであり,言語や視覚性,音声の体制が組み合わされてこそ成立する。そのプロセスの内部で生産されるのが「暴力」ですから,純粋な暴力は存在しない。それは政治や法の起源でも結果でもありません。
戦争と革命の二〇世紀はまた,国家と党の二重体制の時代でした。党は戦争機械である。しかし党にも官僚制や国家装置の部分はあります。当然ですが,国家装置と戦争機械は純粋形態で存在するわけではなく,常にそのつど配分されて存在するのであって,党と戦争機械の関連性を考える時に難しいのはそこでしょう。「戦争機械に依拠できなくなった」ときに,その配分と国家装置による戦争機械の「捕獲」の問題が出てくる。
ならば,与件なのは暴力ではなく戦争機械だということになる。フーコーが言うには,暴力の発現は必ずある種の歴史的かつ演劇的な形式を持つ。言説的・視覚的・音楽的・劇的な。一六世紀の政治的劇場における暴力の発現形態の代表的なものは「クーデター」であり,シェイクスピアが「クーデターの演劇」であるのはそれと釣り合っている,と。だから,一般的な与件としての暴力の話をしても意味がない。ある暴力の発現の様態,つまり「機械」の具体的な分析や試行しか課題にはなりえない。
市田 僕が暴力を与件と言うとき暴力の定義は,社会的なアイデンティティを誰しももって存在しているとして,それをはずれて何かをするということ,それ自体です。現代思想的に越境行為と言ってもいいし,自らの存在根拠を投げ捨てることでもあるだろうし,他者と自分の既存の境界線を崩してしまう行為はすべて暴力的です。だから暴力は根底的にはアイデンティティを問題にしているんだけども,アイデンティティは他者との関係で設定されるから,暴力はどうしても否定的に映る。つまり,暴力的と見える行為は,社会がある限り存在するものでしょう。一つの社会は必ず別の社会の否定としてあるから。戦争機械イコール暴力ではなくて,僕は戦争機械と国家の違いは社会をめぐるロジックの違いだと思っている。同じように暴力を前提にしたときに現れてくるロジックの違い。暴力と社会という運命的な一対を前にして現れる,態度の分岐だと言ってもいいです。
フーコーがおもしろいことを言っていて,国家は実在しない,実在しないから実在する努力をしないといけない,その実在化の努力そのものが国家なのだ,と。国家もまた個人とならぶ主体化の努力だと彼は考えているようです。それ自体はアモルフで無規定な暴力と社会の対を前に,どうやって国家の存在を確保するかというテーマを国家はたえず抱えており,フーコーによればその原初的な方法がクーデターです。クーデターによって救われる対象として国家を逆に措定してやる。作るのではなくて,救う対象にすることで国家に実在性を与える。つまり,与件的に実在する無定形な暴力,国家的主体の安定を阻む流動的な力に,「形式」を与えてやる暴力がクーデターです。そんなふうに,暴力は歴史的な「様態」を獲得していくのではないでしょうか。
略
長原 僕は,シアトル以降の事態を解放感と言ってしまうことに反撥が,個人的には強くある。しかし他方で,暴力を欲深い党的なものに預けてしまうのであれば,ここでことさらに暴力を語る必要はない。すなわち,大衆的な地平で個別で行使される暴力的なものとは何か?
市田 党と大衆政治同盟は区別したいですね。個別の「課題」をもつのが大衆の政治同盟とか団体であるとしたら,党的な組織はそれを持たなくてもいい,ということでしょう。党というものははるか彼方に目標をおいて,国家権力の奪取とか国家の死滅とかの「抽象的」な理念で結ばれており,賃金とか首切りとか自主管理をどうするとかいう目的は持たなくていい。党を必ずしもコミンテルン型の組織にする必要はなく,コミンテルン型共産党は,ある時期に出現したあるタイプの特殊歴史的な「党」にすぎない。秘密結社型の組織の歴史は遥かに長くて,いまではイスラム原理主義のなかに受け継がれているようですが,そういうものと科学を看板に掲げる「主義」が歴史のある時期に結びついた。だから,それをモデルに党を語ることはナンセンスであろうし,ドゥルーズ=ガタリが戦争機械と言っているのは,いわばとことん目標を持たない党というものに近いと思う。目標を無限遠点におくと言ってもいいでしょうが,とにかくとりあえずの勝利に満足できない。とりあえずの勝利を壊す方向に動いてしまう欲深いものとしてある。だから党と戦争機械という問題も立てることができる。戦争機械から見れば,党も大衆団体にすぎないでしょうし,戦争機械のほうがはるかに長い歴史をもっているでしょう。
略
長原 ところで市田さんは,党にどのようなイメージをもっておられるのですか。
市田 ソビエトとレーニン党の関係を考えてみればいいんじゃないだろうか。暴力的なものはソビエトであり,実行部隊はボリシェビキの労働者であり,それはソビエトという機関なわけですよ。党の実体は,レーニンのスローガンでしょう。正しいと思われるスローガンを運動と機関に「注入」する努力が「党」であって,「注入」のための機関はすでに「党」ではない。スローガンを発明し,共有し,語る集団として以外に「党」を考えてはいけないと思う。だから煎じつめれば,スローガンだけが「党」。党員がそのスローガンを流布するために「機関」を作ることはあるだろうけれど,その「機関」は状況に応じていくらでも変化し得るものでないといけない。もちろん,スローガンも状況に応じて変わる。
長原 とすれば,それ以降の共産党は,ドゥルーズ=ガタリの邦訳はそれを「指令語」としていますが,スローガンを無惨なまでに実体化させた,と。
市田 そこから歴史の話に入っていくわけで,いかにそれが最終的にスターリンのコミンテルンになったのか。中国共産党だってそうでしょう。党員七千五百万,あれが国家機関と併存しているわけですよ。そんな規模の集団が戦争機械や革命党であれるわけがない。極限モデルとしては,現在の中国共産党ぐらいを考えながら歴史的な検証をしたらいい。
党を同質な集団として実体化すると,必ず内ゲバが発生する。組織を成立させる論理,存立基盤を共有しているから,考え方の違いを上手く「分裂」にもっていけないのね。「分裂」の根拠をあらかじめ否定しておいて,争うわけだから。完全な戦争であったり,外ゲバであるならば相手を殲滅する必要はない。
略
長原 最後に市田さんにお聞きしたいのですが,例のスローガンについてです。誰がスローガンをセットアップし,どのようにそうするのか,という問題です。自ずと出現するのか?
市田 自ずとはたぶんならないでしょう。自ずとならなくても,それを持ち込むのが党だという図式は成り立つと思う。党の指令は現場を知らない押し付けだ,という紋切り型の批判があるけれど,適切な状況で適切な指令を発しうるだけの外部の視点は必要だろうし,けっこう活動家はそれを持ってきたと思う。それも自然発生的に出てきたと言ってしまいたい。すべてを「外部注入」の一言で切って捨てるのはどうかな。コミンテルンは悪しき外部注入をしたかもしれないけれど,共産党はけっこう地べたを這いずり回っていたわけでしょう。
長原 戦前の日本共産党は,彼らが自慢するほどには,地べたを這いずり廻っていませんよ。
市田 でも現場で,天皇の軍隊である警察に追いかけ回されていたわけでしょう。
長原 「外」からきたオルグが外部注入したスローガンなんてのは,現場ではどうでもいいお題目です。むしろ最終的には村の活動家から固有名入りの露骨なスローガンが出る。党は村の活動家の言葉をスローガンとして引っ張ってくるに当たって,構文上の技法を持っていないのではないですか? 馬鹿げた抽象的な世界分析とあまりに具体的な現場のスローガンが臆面もなく並列されている。
運動のない所では,言葉を外から無為に注入されるだけでしょう。だからスローガンという考えをもう少し伺いたい。党がスローガンだとすれば,スローガンとは何か。
市田 スローガンは機能している限りでスローガン。機能させるのが運動だと思う。それがないと何かをわめくだけ。
佐々木 最後に。何故僕が呼ばれたのか判らないままですが,実に興味深く実践的なお話が伺えたと思います。ただ,ああいう奴は昔にもいたから,今やってる奴も結局はこんなものだ,というような話はよしてくれと言いたい(笑)。また,折に触れて言及される小熊さんをなぜここに呼ばないのか,という素朴な疑問がなくはない。僕も彼の考えには首を傾げます。「同一性の崩壊」なんて何の説明にもならない。が,彼より十歳上と十歳下の人々が集まって欠席裁判しても仕方がない。世代間闘争には意味がありません。
略