「フリーター」から「民衆」へ
まだ見ぬわれわれへの生成法
私はこの愚稿を,「〈佐藤優現象〉批判」その他の論考において「若年者の労働運動」に対する懐疑的見解を含む重要な問題提起をしてきた金光翔に触発されつつ,「若年者の労働運動」の傍流的位置からの運動状況への介入として書く。私の愚稿のひとつの焦点を象徴的に表現すれば,「若年」でも「青年」でもなく,「フリーター」を名乗ることの政治的意味合いである。
金光翔は,日本の「リベラル・左派」が佐藤優をもてはやしている原因のひとつとして,佐藤優が「格差社会」反対の論陣に貢献してきたことを挙げる。その上で金は,その「格差社会」をめぐる論議には外国人労働者と日本人労働者との格差やグローバリゼーション下における地球的な格差の拡大を問題にする視点が基本的には欠落していること,そして格差社会問題について発言する昨今の「リベラル・左派」が,「排外主義が強まる」ことを理由に外国人労働者の流入規制などを主張・支持・容認していることを指摘したうえで,そのような論調を「排外主義としての格差社会論」に他ならないとして批判する。外国人労働者の流入規制を公言し,かつ「リベラル・左派」と粘着している知識人・評論家の例としては,佐藤優以外には萱野稔人や森永卓郎が挙げられる。
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無自覚な強者のニヒリズム
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日本人は民衆を破壊する
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日本人的な,あまりに日本人的な
―「非国民」に居直る絓秀実―
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フリーターは民衆へと問いただされている
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われわれはいま「フリーター」という名乗りを闘いの準拠点にしてきた。そして「フリーター」は「民衆」へと向かって問いただされている。その名乗りと問いただしのあいだに,われわれの自由と不自由(責任)の境界線もあるだろう。
「フリーター」とはさしあたり「正社員ではない労働者」に与えられた徴であるが,より本質的には,「フリーター」とは,日々自らを労働力商品にすることを迫られながらも,いつでも致命的に売れ残ってしまいかねないという,その未決着状態に与えられた名前でなければならない。その未決着状態において,はじめて資本主義を暴力として感知することが可能となるだろう。プロレタリアートは「二重の意味で自由」であると言われた(マルクス)。その「自由」は,自分の労働力を商品として売ろうとしても売れ残って(あぶれて)しまう可能性,すなわち未決着状態の中にある「自由」である。しかし,その「自由」がやがて「市場において自由に労働力を売ることができる主体」の自由として固着させられる一方で,労働力を売り損ねた人間は「労働者」とは別のあらゆるレッテルによって把捉されるだろう。プロレタリアートの持つ「二重の自由」。それが「自由な主体」の〈自由〉として固着・決着させられるのか,それとも未決着の闘いを可能にする〈自由〉へと転化されるのか。未決着の闘いを引き継ごうとするものは,資本と賃労働との関係を「売る手前」で見つづけようとするだろう。しかし,現時点において売れ残ってしまったものたちも,生きるために国家や資本から「買い取られる」ことを求める中で,そして「売れて」しまうこと,「売れた」地点からものを考えることを通じて,やがて売り買いそのものを成立させる資本主義市場の暴力に対しては不感症となり,結果として「自由な主体」となることで資本主義の暴力に無自覚に加担しはじめる可能性を常に抱えている。そして近代における差別の問題は,このような労働力商品市場の「手前」における人間の選別と不可分に存在するはずだ。たとえば台湾における日本軍による先住諸民族の徹底的な殺戮の後に吐かれた日本人共産主義者(細川嘉六。後の共産党参議院議員)の言葉をキムチョンミは書き付けている。
- 「残る唯一の匪首林少猫が[一九〇二年]五月三十日戦死して,ここに漸く土匪は掃蕩され蠢動の余地を失ったのである」「土匪の鎮定によって台湾資本主義の途は切り開かれた」(『故郷の世界史』,五一頁)
この「鎮定」こそ,資本制国家に生きる私たちを日々成立させている力の質を言い表している。私たちは「土匪」なのか「日本人」なのかを日々尋問されている。学校で,家庭で,面接で,ハローワークで……ますます日の丸に覆われつつあるあらゆる公共空間で。「売れ残る」不安を持つものだけがそこにある暴力を感知できる可能性を持っている。しかし,私たちがこの社会で生きてゆくということは,売れること,承認されることにおいてそのような感性を殺してゆくことでもある。いま殺されつつある声を感知し,それに応答することだけが「フリーター」という未決着状態を,統治にあずけるのではなく,真に政治化するだろう。しかし,売れるか売れないのか分からない不安が,そのまま闘いの共同性へと構築されることなど資本制国家は許さない。あらゆる分断,差別,排除によって「売れる」ことを(無根拠にも)信じることができる人間と「売れ残る」不安の中で生きざるをえない人間(そしてその不安に耐え切れなくなり,悲惨な決着を試みる人間)が生み出されていく。私は「非正規雇用労働者」としてであっても,自分を売ることに成功し,そして「日本人」として生きているものの一員である。私はすでにさまざまな決定の負荷にまみれている。私は到底無垢・無罪ではありえない。しかし,「私たち」の有罪を「最終決着」とすることだけは拒否しなければならない。なぜなら「最終決着」を認めることは,いま「フリーター」を「国民」として決着させようとする政治に抗する力,すなわち,われらの内なる(ルンペン)プロレタリアートが,われらの内なる上部構造へと進駐する力をわれわれから奪ってしまうからだ。「まだ見ぬわれわれ」としての「民衆」へと到達するために闘うわれわれの権利は誰にも奪えない。私は,私が責任を負う位置から,闘う自由をもって,私の担っている不自由を解体するだろう。そのためにも自由と不自由=責任の臨界を見極める必要がある。
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資本制国家の暴力が現在進行中であるそのただ中において,売れる/売れないの分割は,殺す/殺されるの分割と地続きである。売れ残ること,殺されることに抗うことは,まだ売れていない/殺されていない,という未完了・未決着の地点に定位することである。現在進行中の事態における「私たち」の位置や役割を,単に敗者と勝者,強者と弱者に振り分けて了解してしまうことは,すでに決着してしまった歴史の追認にしかならない。「殺す側」であることを,すでに決着されたものとして引き受け,その「殺す側」としての自己を否定し,自己の内側に陥没してゆくことは,「まだ見ぬわれわれ」へと至る可能性をうち捨てることだ。しかし繰り返せば,「売れる側」や「殺す側」となることの「拒否」は「私たち」の自由に任されているのではない。日本人の都合で「他者を導入」するなどということが問題なのでもない。「私たち」は,いまだ未決着状態の中にある声が「私たち」を問いただす声,いまにも「売れた側」「殺す側」として決着され,承認されつつある「私たち」を問いただす声を聞き取り,これに応答し始めるという,政治的な能力を問われているのだ。たとえばキムチョンミが「日本民衆」総体に対して「自分たちの残虐行為」を直視することを求めるとき,それを単に本質主義や決定論として退けてはならない。その決定,すなわち「日本人であるかぎり虐殺者である」という決定に対して,日本人が少しでも留保の余地を挿しはさめるとしたら,それは日本人が(天皇国家の名において)犯してきた残虐行為とその遺産を解体し,差別と侵略の構造そのものとして存続している日本に対して具体的な闘いをなしえている,そのかぎりにおいてでしかない。
「労働者」に,したがって「日本人」になり損ねる可能性は誰にでも開かれている。しかし,私たちは日々何者かとして,「日本人労働者」として決定されており,その決定の積み重ねの分私たちは自由ではない。その不自由は責任である。そしてわれわれに可能な自由とは,そのような諸決定の積み重ねとしてある現在の現実を引き受けつつ,他者に応答しながらそれを解体してゆく政治的な能力のことではないだろうか。「フリーター」という名乗りを国民主義的な決着に対する拒否として貫き,その未決着状態に留まることを,国民たる「私たち」を解体する自由に転化できるか否か。それは,「フリーター」が「民衆」へと向かって問いただされているかぎり開かれた問いとしてありつづけるだろうし,そしてそれだけが国民という「私たち」を拒否して前に進もうとするわれわれの希望である。「私たち」が他者の声に応答するための空間はまだ潰えていないはずだ。