腑抜けの暴力
現在の日本社会に蔓延している暴力があるとすれば,それは腑抜けの暴力とでも呼ぶべきものであるように思う。それはふたつある。ひとつは,日本政府とマスメディアが一体となって行っている北朝鮮バッシングにおけるそれであり,もうひとつは,世界的な不況下で新たに立ち現れている人種差別主義におけるそれである。
それらは別々の事象であるけれども,朝鮮人である私の身構えにもとづいて言えば,そのふたつは今ここで同時に知覚感覚されている暴力である。それらはあくまでも腑抜けなのだけれど,腑抜けの暴力が常態化してこの社会の空気と化した時,再び,とりかえしのつかないことが起きるかもしれない。私たちが生きるこの社会の未来を案じる。私は表現者として,ひとりの大人として,未来の子供たちに恥じない社会を作りたい。それがこの社会に生きる者としての最低限の務めだと思う。
この文章は,いま私が知覚感覚しているふたつの腑抜けの暴力を言葉化するための断章である。ささやかではあるけれど,私なりに,今ここにある暴力を可視化するための距離としての言葉を求めたいと思う。そして,この社会における歴史感覚と政治感覚の再生とともに,今ここにある暴力を解く契機を見出したいと思う。
一 「ミサイル」から「新型インフルエンザ」へ
略
二 人種差別主義者へ
二〇〇九年四月一一日,埼玉県蕨市で,日の丸を手にした百人ほどの一群が,両親が国外退去処分を受けた在日フィリピン人のカルデロンのり子さんの通う中学校に「犯罪外国人・犯罪助長メディアを許さない国民大行進」なるデモンストレーションをかけた。「犯罪一家を日本からたたき出せ」の声が響いた。当時,カルデロンのり子さんは校内にいたという。怒りを通り越して,恥ずかしさすら覚える。
デモンストレーションをかけた彼/彼女らは,「在日特権を許さない市民の会」と名乗る人種差別主義者たちである。その後も,彼/彼女らは,五月二日に「外国人参政権断固反対 全国一斉デモ」(札幌,東京・渋谷,名古屋,福岡)を皮切りに,在日朝鮮人が集住する京都のウトロ(六月一三日)で,大阪の鶴橋(七月一八日)で同趣旨のデモンストレーションを行っている。彼/彼女らは一見,普通の市民だ。「恐慌とファシズム」―そんな古ぼけた命題が頭の片隅を横切る。世界的な不況下においてファシズムや外国人差別が肥大化した歴史を思い起こす時,いま立ち上がっている新たなる(しかしあくまでも古臭い)人種差別主義を見過ごすことはできない。
そもそも「在日特権」なるものがいかなる根拠もないことは言うまでもない。それは,妄想でしかない。世界的な不況下で自分たちの利権が脅かされることに怯えるなかで捏造された妄想でしかない。もっと言えば,自分たちの特権を与えて欲しい欲求が満たされない欲求不満のはけ口としてエゴイスティックに捏造された妄想でしかない。彼/彼女らは,あくまでも妄想のなかで生きており,現実に存在する在日朝鮮人の一人一人とは,その妄想を共有し合える仲間集団と一緒でなければ向き合えない,けっして一対一では向き合えないだろう。一対一で向き合い,在日朝鮮人の歴史とその生活の現実を知った時,彼/彼女らの妄想はたやすく覚めてしまうだろうから。だから,彼/彼女らの人種差別主義がはらんでいる暴力は,腑抜けなのだ。
世界的な不況下のなかで立ち現れている人種差別主義の現象から想像的に読み取るべきなのは,下層の若者たちの不満が,あるいは自分も下層に転落するかもしれないという予感と怯えが,外国人差別・排除に向かってしまっているということだ。社会のなかで直接に排除の暴力を被りながら,あるいは間接に排除の暴力を目撃しながら,その暴力を内面化してしまっている若者たちが,その暴力を解決する術を知らないまま,その暴力の行き場のないままに,それを他者に向けて表出することで自己のバランスを取っている。ひょっとして,彼/彼女らはもはや,国民として存在していない,棄民であるかもしれないにもかかわらず,いや,だからこそ,外国人を差別・排除し人種差別主義に走ることで,日本人としての自己同一性を必死になって確認・保全しようとしているのかもしれない。
たとえば,カルデロンのり子さんに向けられた「犯罪一家を日本からたたき出せ」の声は,一方で,「日本人である私たちを日本からたたき出さないで」という,国民としてもはや存在していない,棄民であるかもしれない彼/彼女らなりの悲痛の叫びのようでもある。つまり,「在日特権」なる妄想をもって在日朝鮮人を,外国人を排除せんとする彼/彼女らもまた,この国ではいわば「在日」であり,「外国人」なのかもしれないのである。彼/彼女らは鏡に映った自分の姿がそのように見えている,あるいはこの国で自らが「在日化」すること,「外国人化」することを予感しているのではないか。
いま内面化している暴力を他者に向けて表出するのではなく,その暴力と対峙して共に闘うために,私は彼/彼女らのもとへ,一九三一年にブラジルに単身で移 民した日系ブラジル人の故紺野賢一さん(一九一二-二〇〇九)の言葉を媒体となって届けたいと思う。壮絶でありながら,いや,だからこそ人間的なユーモアに満ちた一生を送られた紺野さんの生き様を綴ったドキュメンタリー映画『ブラジルから来たおじいちゃん』(栗原奈名子監督,二〇〇八)は,私たちの生きる近代が戦争と貧困に翻弄されながらの移動・移民の歴史であったことを,紺野さんがブラジルの彼方此方を,日本の彼方此方を歩き続けてきた/いるその足もとを追いながら表現している。
このドキュメンタリー映画には,世界史的な視野にもとづいた紺野さんの叡智が繊細に込められているのだが,この映画とは別の場所,二〇〇九年一月一七日,大阪の第七芸術劇場での上映後に行われたスカイプを通じてのライブトークで,紺野さんは次のようにおっしゃった。正確に言えば,以下の原稿化されたメッセージを読み上げられた。その四カ月後の五月一八日に亡くなったことを考えれば,これは紺野さんのいわば遺言である。
- さて,翻ってブラジル移民が言語の通じない風俗習慣の全く異なる遠く離れた異国で必死になって生きて来たことだろうと想像され同情して下さるならば,デカセギの人々を軽蔑せず暖かい思ひやりの心を持って接してやって頂きたいとお願いする次第です。
(紺野さんからのメッセージ http://amky.org/senhordobrasil/fromkonno.html)
紺野さんは聴衆たちに向かって,日系ブラジル移民の生の在り方を通して,現在日本に出稼ぎに来ている日系ブラジル人の存在を見つめ直すことをお願いしている。この言葉に日本に出稼ぎに来た日系ブラジル人を「軽蔑」し,「暖かい思ひやりの心を持って接して」いない日本社会の現状に対する認識と批判が暗々裏に込められていることは言うまでもない。もっとも,この言葉には,紺野さんのしわの深さや温かな表情と同じように,苦しみや悲しみといった感情がすべて溶けて表れているから,それはもはや「批判」という次元ではなく,達観した穏やかなまなざしによるものなのだけれど。
紺野さんのこの言葉は,日本に出稼ぎに来た日系ブラジル人のことを念頭に置いて紡がれた言葉である。しかし,日系ブラジル人の出稼ぎ労働者のことを「デカセギ」とあえてカタカナで表記されてもいるように,それはけっして日系ブラジル人に限定された言葉ではなくて,もっと普遍的な視野で紡がれている言葉であるように思う。つまり,この言葉は,日系ブラジル人をはじめとする在日外国人を差別・排除する日本社会に対する警鐘であり,在日外国人を差別・排除する日本社会の閉鎖性を開くことへの願いなのではないだろうか。紺野さんは続けてこうもおっしゃっている。「そして移民の集まりであるブラジルで我々が軽蔑されず人種差別も受けず社会の各部門に進出して楽しく幸福に家庭を持って暮らしていることを思ひやって暖かくデカセギの人々を迎へ入れてやって頂き度いとお願ひする次第です」と。日系ブラジル人と共にこの社会に生きてきた/いる人間として,私は,誤読を恐れずに,紺野さんの言葉をそのように受け止めたいと思う。
「在日特権を許さない市民の会」に共鳴している人種差別主義者たちは,日本人として外国人を差別・排除するのであれば,まずもって,「ブラジルから来たおじいちゃん」の声に耳を傾け,日本人の過去と現在の歴史を知るべきだ。日本人もまた移動・移民の歴史としての近代に生きているということ。日本人がブラジルという異国でより良い暮らしを求めて必死になって生きてきたということ。そして,自分が日本人でありながら,ほかでもない〈日本的資本主義体制〉のなかで棄民としてすでに棄てられているかもしれない,あるいは棄民として棄てられることになるかもしれない時代に生きていることを知るべきだ。自分が被っている暴力を他者に向けて表出するのではなく,その暴力と対峙して共に闘うこと。この時にはじめて,他者との共生の道は開かれるだろうし,自己救済の道も開かれるのではないだろうか。むろん,彼/彼女らにしてみれば,余計なお世話かもしれないのだけれど。
三 朝鮮戦争と出遭い直す,あるいは朝鮮戦争を日本化する
略
むすび
略