『悍』第2号 pp.50-112(抜粋)

ヤポニア歌仔戯 阿Q転生
二〇〇八年東京公演台本

野戦之月海筆子

 序章 有人踏切にて

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 第1章 シャンバラの黄昏

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 第2章 夜鍋の葬祭

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〈ささむ〉 母親は,魚の行商でようやく買えたりんごを,私らのために剥きながら,私らに話すともなくこう言った。――読み書きのできなかったときは,まいにち壁にむかってにらめっこしてた。心がさみしくてしかたなかった。心が足りなくてどうしようもない。どうしようもない私がリヤカーひいて歩いている。腐りかけの魚を心配する心だけで歩いている。足りない心で歩いている。とにかくヒトになりたい。――母親は,毎晩,広告の裏に字を書く練習をした。それはこのクニの音ではなかった。か・な・た・ら・ま・ぱ・さ・ちゃ――とぎれとぎれの母親の魚くさい声が,狭い部屋の電灯の下により集まって「ヒトになりたい」「ヒトになりたい」という言葉となった。電灯の下で寝ていた私は,その言葉を目を細めて眺めていた。ヒトになるのは大変やね,かあさん。私にはムリかもしれんよ,とぼんやり思いながら,もう私は眠っていたようだった。(立ち上がって裸電球を消す)母が電灯を消すと,私は母には内緒で夢を見た。それは夢以外では会うことのできない父親の夢だった。山のケモノだった父親は恐ろしい猟師たちに捕らえられて,針金で腕を縛られて海に捨てられた。海に捨てられた父親は何日も何日も身体のあちこちをタコや海老やアワビに食べられて,いつしか一匹の魚になっていた。でも父親はヘタな魚だった。いつまでたっても水になじめずに,溺れてしまう魚だった。それで,いつしか浜辺に打ち上げられてしまった。夢の中の私は,走ってその浜辺に行ってみた。まだ行ったことのない故郷の浜辺だった。私はそのヘタな魚を拾って,抱きしめてみた。これが私の父親かしら? 随分変だけど,まあいいや。私はヘタな魚を家に連れ帰った。そして,母に内緒で部屋にある魚の木箱の中にかくまった。ああ,これで時々父親に会える,と思うと嬉しくて,こころが少し安心した。安心するととても眠くなってきた。それで私は夢の中からこっそりと,普段の眠りの中に戻っていった。(目を閉じ,眠る)

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〈銀舎利〉 俺はちがうよ。第一病院なんか行かないし,まあ,自分の部屋もないしね。風来坊というか自由人というか――

〈ささむ〉 ネットカフェに泊まっているのかい?

〈銀舎利〉 毎日じゃないよ。

〈ささむ〉 身動きできないだろう,狭くて。

〈銀舎利〉 いや,そうでもないよ。まあ,ベッドじゃないから寝返りはうてない。それで身体が痛くて時々目が覚める。目を覚ますと身体の位置をちょっとだけずらす。そんな時,ふと,自分は霊安室に寝ているんじゃないかと思うんだ。

〈ささむ〉 霊安室?

〈銀舎利〉 声がしないんだ。ヒトの声が。

〈ささむ〉 みんな,眠っているからだろう。

〈銀舎利〉 いや,そうでもないよ。かちゃかちゃ,かちゃかちゃってマウスの音はするし,キーボードをうっている音もかすかに響いている。ああ,だれかコーヒーを入れてるなって音もね。ただ,声がしない,ヒトの声が。たくさんヒトはいるはずなのに。もちろん,会話は禁止されているのはわかっているけど,せめてだれか一人くらいは独りごと言ってくれてもいいじゃないか。どんどん心がさみしくなってくるから,よし,俺が独り言いってやると決意して,「まったく静かでさみしいねえ」とかなんとかしゃべろうとするんだけど,声が出ないんだ。どうやっても声が出ないんだ。そうか,口が強張っているんだ,ちょっとリラックスさせて呟いてみよう。うむ,うむ。つぶやきさえ出てこない。はあ,はあ,だんだん呼吸が苦しくなる。口からあぶくみたいなものが出てくる。こいつが嫌になるほど魚くさいんだ。その匂いから逃げようとして起きあがろうとするんだけど,水揚げされた魚みたいにぴくぴくするだけでどうにもならないんだ。ああ,これは夢なんだ,針金で縛られた夢なんだ,と自分に言い聞かせる。はあ,はあ。見れば,ネットカフェの仕切りは消えていて,俺と同じような姿をした魚がずらっと並んでいる。口からあぶくを出して,ぴくぴくと身体を震わせて魚市場のコンクリの上に並んでいる。はあ,はあ,これはだれの夢なんだ,こんなひどい夢は。これは俺の夢じゃない,俺の夢じゃないぞ――

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 第3章 夜更けのアポトーシス

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〈なんきん〉 (口紅をひきながら)後期高齢者に,鏡はいらない。(にやっと笑う)のう,阿Q。人間の赤ん坊というものは,鏡の前に立ったときから自分自身,いや自己責任という妄想に取り憑かれるということじゃ。鏡地獄じゃのう。これは西洋の考え方じゃが,おまえやわしのように,屠殺されては転生し,転生しては屠殺されてきたモノに自己責任などというものはない。わしらはただの物理じゃ。自己責任も自己選択もない。生まれもしなければ滅しもしない。不生不滅でわしらのすべてがととのいますわいの。そうじゃろう、阿Q。とはいえ,この世とのつきあいというものもある。迷えるモノがおるからのう。(赤い鉢巻きをする。喊声が聞こえる)迷える羊,あるいはヘタな魚、はたまた堕天使の諸君。わしら後期高齢者の皺は奥が深い。それはこの世の絶望的な記録だ。いま,闘う後期高齢者はこの記録を君らの前に希望のようにおしひろげる。(顔や腕の皺を伸ばす)皺を刻み皺を伸ばすためにこそ,後期高齢者はこの世にある。あっ! あっ! 畏れよ、後期高齢者を! ともに闘おう、後期高齢者と! 万歳、マンセー、ワンスエ!――とりあえずこのくらい言っておけばいいだろう。

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 終章 夜明け前の踏切にて

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(歌)布切れの空 鉤裂きの月
  地に降りつもる 赤サビた文字
  ああ それは 砕けた魂
  喉に刺さる おまえの言葉
  磨り硝子の海 血塗れた魚
  夜を震わす ひび割れた声
  ああ それは 裁かれた身体
  耳だけが知る おまえの合図
  ああ こよい わたしは風になろう
  ほうほうと空に鳴る 風の使いに
  ああ こよい わたしは涙になろう
  はろばろと水を渡る 怒りの涙に

歌の途中,地味なヒトたちは,かけ声とともにレールを持ち上げ花道を運んで去る。
堕天使たちは枕木の下からヒトガタを掘り出し抱きかかえる。
〈れいて〉が舞台奥に立つ。

〈れいて〉 いま,おまえの声をきく! わたしらの母の声を,わたしらの父の声を,怒りの声を―――

れいての身体から,赤い涙が溢れ出し,衣装は赤く染まっていく。
機関車の前の枕木から水が噴き出す。
舞台奥の機関車は後方にしりぞく。
舞台の下手高みに〈ささむ〉が立つ。

〈ささむ〉 母のとぎれとぎれになった声が,狭い部屋の電灯の下に寄り集まって,「ヒトになりたい」「ヒトになりたい」という言葉になった。その言葉はやがて,絡み合ってヘタな魚のようなカタチになった。ヘタな魚は部屋の中を泳ぎ出した。その泳ぎ方があまりに不格好なので,私はとても愉快になり,涙を流した。やがて,部屋は私の涙で海になった。その海で私もまたとても不格好に泳ぎ出した。愉快になるほど,不格好に泳ぎだした――

地味なヒトびと加わって,「テーマ1」が歌われる。
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