『悍』第2号 pp.14-22(抜粋)

「プレカリアート」に工作を

小野俊彦

 略

 二〇〇八年の末から製造業を中心とする企業で派遣労働者の解雇が横行し,それへの対抗運動の盛り上がりが主にマスコミを通じて伝わってきていた。その「運動」側の声がマスコミ報道の基調に飲み込まれようとしつつあるのを感じながら,僕は谷川の揶揄を思い出す。谷川は,百姓一揆に関する歴史記述の多くが「絶望に駆られて衝動的に立ち上がったとでも解釈するほかはない記述」に満ちていることに疑義を呈する。「歴史家たちはまるで彼等[農民]が世界観などには縁のない首なし動物であるかのように扱う」と。これはほとんど今日のマスコミ報道のことだ。そう言えば「派遣切りの犠牲者」たちの首から上はテレビ画面には写らないし,その声も人間とは思えないようなデジタル処理された音声ではないか……。もちろん問題は,彼らや彼女らに「顔を出して自分の言葉を喋れ」と説教することでも,マスコミに「真実」の報道を迫ることでもない。問題は,「歴史記述」「報道」という名の鎮圧を拒否する我々の力がどこから来るのかを探ることだ。〔……〕

 略

〔……〕マスコミや「知識人」たちの言論は,いつでも茫漠たる「大衆」を代弁しようとしており,その中で我々の言葉や行為の可能性はいつでも鎮圧されてしまう。そのような鎮圧に抗うためには,僕たちはまず己の中にある矛盾や不和を鎮圧してしまうことを止めるべきだろう。不和や矛盾をくぐり抜けるひとつの断言こそ力のある言葉であるだろうし,そのような力に溢れた断言を,他者に撃ち返されながら何度でも繰り返してゆく「我々」には,もはや勝手に自己充足した個や無媒介に同一化する対象としての大衆,上から降ってきた観念に代弁される大衆の余地などない。そのような矛盾や不和を見る眼を持ちつつ,しかもそれを「解決不能」と嘆息するニヒリズムに至らせない不自由な断言を選ぶこと,そのようにして他者をひきずり出し続ける谷川雁を僕は読む。問いもないまま充足してしまっている自己の外,あるいは問いに対する確かな答えなどないと悟ってしまう非力の外へ出なければ,僕たちは何の言葉も吐けなければ,行動することもできないと思うからだ。しかし,ひとつの断言を犯し,何かの行為をなすことが,他者からの何の跳ね返りも呼ばないとしたら,それこそがもっとも恐ろしい空洞(ニヒル)だ。僕たちが幸運にも他者からの跳ね返りに出会うならば,そこからまた「組織化」……他者を啓蒙し組織に加入させるという意味での「オルグ」ではない,「我々」の組織化というものの無限の困難の前に立たされるだろう。僕は九州の一都市で,大学院生崩れのフリーターとして一発喚いてみたことで,幸運にも,「大学院生崩れが何をいってやがる」といわんばかりの「フリーター」「ニート」「ヒキコモリ」たちからの跳ね返りに出会うことができた。僕はおそらくかなりの部分,大学や大学院という制度から規定された自分を引きずっているし,そのような自分の限界を簡単に脱ぎ捨てることなどできない。いや,そのような自己を相対化してごまかすことで生まれる「小市民的結び目」を僕も憎むから,そうしない。そんな僕の偏りまくった言葉に,しばしば「沈黙」というかたちでも向けられる様々な反応は,決して「建設的な批判」なんていう体の良いものではない。建築物の土台のように共有された前提などどこにもないのだから。あらゆるところに矛盾や不和がある。僕たちは様々な生や労働を生きながら,それぞれの場で制度的に限界付けられてきているが,その制度からはみ出たところでもたらされた「出会い」も,「どこかで前提が共有されているはずだ」というような思い込みにすがってしまえば,結局別の制度,調停を妥協を生み出すことになってしまうだろう。「労働運動」であれ「市民運動」であれ,そのような制度に堕してしまう可能性はいつでもそばにある。彼らや彼女らとの出会いを曖昧に集約し,糾合する誘惑もあるだろうが,そこには抵抗もありつづけるだろう。それは単に僕に「とりまとめる」器用さが欠けているからかもしれないが,むしろ僕は器用にスマートに運動を進めてゆくことよりも,自分の中の工作者がどこまでも隊列を乱すことの中から新たな隊列が生まれる可能性に賭ける。「プレカリアート」よ,「フリーター」よ,工作者を殺すな。

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