編集後記(第2号)――――

芸術特集をおくる。『大航海』最新号(特集[現代芸術]徹底批判)で松宮秀治さんが伊藤整の『芸術は何のためにあるのか』を引いて,芸術は悪ではないのかと問いかけている。発禁など国家の芸術禁圧に対しては批判しても国家の芸術保護や叙勲には反対しない論者が少なくないが,伊藤は両方とも芸術に対して有害だと言った。芸術や文学の「自律的価値」という考えは特殊西欧近代のもので,日本を含む儒教圏では人生の最大事は「芸事」から身を遠ざけ志を立てることであり,芸に身をやつすことは「世を捨てる」ことであった――との松宮さんの指摘には頷かされる▼芸術は追いつめられた人々の涙であり溜め息である。三四年前に沖縄で焼身自決した船本洲治は「政治は人々を崇高にもするが醜悪にもする」と言い遺した。文学や芸術なき政治は腐敗する。政治なき文学や芸術は無力である。「有識者」「優等生」に頭を押さえ込まれつづけ,沈黙とあきらめを強いられるなかで,身体を張って自らの言葉を取り戻す苦闘は感動を呼ぶ。崔真碩さんや太田直里さんの文章は素敵だ▼お寄せいただいた原稿で載せられなかったものもあった。マーケットを拒否したアートの幻想を捨てよとの長原豊さんの特集討議での発言に対して,これこそが芸術だ!と啖呵を切るぐらいの元気なものが欲しかったのであるが,残念である。特集外で深見史さんがリブ運動の原点として引いている「わかってもらおうは「乞食の心」」には,相手に媚びて対立を曖昧にしてしまう卑屈さとは正反対の,啖呵を切る心がある▼種をまくという「啓蒙」の思想に立つかぎり,先に悟った者,まだ悟っていない者という時間的な前後による区別が前提にされてしまう。これはあやしい。しかし,“外から与えられるもの”に対する抵抗は依然,反啓蒙でしかない。「反貧困」といい「生きさせろ」というが,それは与えてくれと懇願しているにすぎないのではないか。「反富裕」であり「生きる」という自己自身の思想が必要である▼日本の社会運動はこれまで労働の場(場合によっては「会社」)における搾取への反撃を革命のイメージとしてきた。これもあやしくないか。飛び込み自殺で朝の通勤電車が遅れると舌打ちされる世の中である。異を唱えると「空気が読めない」と虐める世間である。殺られ損,死に損,挙げ句は莫迦な目に遭うのは「自己責任」――と人々の心が凍り付いたままでは,革命など起こりようがないではないか。凍った心の氷解なしの自称「革命」は人々を醜悪にする政治に違いない。「この世をこの世以外のこの世にする」(『阿Q転生』)ことはいかに実現できるのだろうか▼一〇月刊行予定の第三号は暴力論特集を予定している。「健康増進」や「禁煙」「自殺防止」がお節介にも法律で(!)強制され,学校や街からビラも立て看も一掃されたいま,暴力とは何かを原点に立ち返って考えたい。(M)


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