なんと正しいことをしたのだろう!
「あんな時代もあったね」と話してみよう
略
反戦フォークがヒットする時代
略
暴力学生は許さない!
略
学生寮に入る
略
東京で受験勉強をしていた私はすぐに六郷土手から北多摩郡久留米町(現在の東久留米市)にある鉄筋五階建ての寮に引っ越した。この大学がつまらないところなら二浪しようと,受験参考書も捨てずに持ち込んだ。私は新入生の中で一番早く寮に入った。先輩たちがみんなで私の荷物を部屋まで運んでくれ,ある寮室で簡単な歓迎会をやってくれた。後でわかったことなのだが,この私を歓迎してくれた先輩たちは一人残らず「暴力学生」だったのである。
ふとんを新たに買う必要があったが,それまで先輩のふとんを借りることにした。その部屋にいたAさんに大学のことをいろいろ教えてもらった。それでさっそく「暴力はいけないのでは」と切り出し,私は政治の流れを決めるのは議会であり,そのために選挙で多数を獲って政治を変える方法があるではないか,と意見を述べた。するとAさんは「アメリカのベトナム戦争はどうやって止めさせるの。俺たちにはアメリカの選挙権はないよ」。それで,私は「それはやはり,世論をうごかして,アメリカを強く説得するとか……」と言っている自分の言葉に説得力も実現性もないことに気づきはじめた。私の「暴力学生説得工作」はいきなり挫折した。
はじめてのデモ
略
ある夜,寮のK先輩が私の部屋に来て,「明日デモに行かないか」という。なんでも,近くに米軍の横田基地があって,そこから毎日ベトナムを爆撃するジェット機が出撃している。ジェット機の燃料は鉄道で運ばれているが,そのタンク車を止めよう,というのである。もし俺たちの力で運び込まれる燃料を少しでも減らすことができれば,ベトナムへの爆撃機の出撃を減らせることになる,と。
うーん。確かに。世論を喚起し,選挙で多数派になるのはすぐにはできそうもない。しかし,米軍の機能を少しでも低下させれば,ベトナム人の命を一人でも救うことになるのかも知れない。それに,そもそも「デモ」ってどんなものよ。
翌日,私は興味半分で先輩に連れられて拝島駅付近の公園に行った。ヘルメットを被った学生たちが百五十人ほどいて,交替で演説をしている。集会が終り,いよいよデモとなる。先輩は私に黒いヘルメットを貸してくれた。
デモは一列四人でスクラムを組んで行進する。……
略
超高層ビルに逃げ込む
デモ初体験の感想としては,少々痛い思いはするが,そんなことはベトナム人の苦しみに比べれば無に等しく,もっと多くの人々を反戦運動に巻き込まねばと思うようになった。
略
世界中で学生の叛乱が始まった
略
一九六八年という年
略
このように一九六八年とは全世界で戦争と叛乱,抗議と暗殺が,揮発油に引火するように拡大していった年である。「こんな時代に沈黙して勉強しているだけでいいのか」という問いはどの学生にも投げかけられていた。私は「行動派」であろうと思った。
10・21国際反戦デー
テト攻勢で北ベトナム・解放戦線の陣営は四万五千人の死者を出した。これはアメリカ軍・政府軍の被害の十倍以上であり,戦術的には敗北であった。しかし,全世界の人々にベトナム戦争でのアメリカの優位性・正当性・正義性を疑わせることになった。マクナマラ国防長官は辞任し,ジョンソン大統領は次期大統領選への出馬を辞退した。テト攻勢は多くの戦死者とひきかえに,全世界にその数百倍,数千倍の味方を作り出したのである。イラク戦争,アフガン戦争でも「テト攻勢」ということばが呪いのテト攻勢で北ベトナム・解放戦線の陣営は四万五千人の死者を出した。これはアメリカ軍・政府軍の被害の十倍以上であり,戦術的には敗北であった。しかし,全世界の人々にベトナム戦争でのアメリカの優位性・正当性・正義性を疑わせることになった。マクナマラ国防長官は辞任し,ジョンソン大統領は次期大統領選への出馬を辞退した。テト攻勢は多くの戦死者とひきかえに,全世界にその数百倍,数千倍の味方を作り出したのである。イラク戦争,アフガン戦争でも「テト攻勢」ということばが呪いのように使われている。アメリカはベトナムから十分な教訓を得ていないようだ。
さて,私たちが「先駆的に」やった米軍のジェット燃料を止めようという考えは,ベトナム人民と直接に連帯・支援できる行動として理解しやすく,反戦闘争の中心的な課題になってきた。なにしろ,国鉄中央線を危険なジェット燃料用のタンク車が公然と通過しているのだ。前年に起きた新宿駅でのタンク車の爆発事故の記憶は多くの人の中に生々しく残っていた。
「情勢が叫ぶことば」というものがある。「米タン阻止」は全国の大学で実力闘争を始めた学生たちの共通のことばとなった。十月二十一日の国際反戦デーに「米軍のジェット燃料タンク車を実力で止める」という方針は既定のものとなった。しかも,日本一昇降客の多い国鉄新宿駅がその「戦場」となることも。
略
新宿一番乗り
略
東大闘争と日大闘争
略
バリケードで迎えた二十歳の誕生日
略
農民と学生の奇妙な共闘
略
東大安田講堂攻防戦
略
雄辿寮というアジール
略
天皇が傷つけられたら
略
「自己否定」という契機
略
このころ,私たちの闘いの姿勢に対して多くの運動体からの鋭い批判・糾弾がなされはじめた。
在日朝鮮人,中国人からは,私たちの運動が彼らが置かれている差別構造に無関心であることが指弾された。
狭山差別裁判と闘っている部落解放同盟からは,私たちが部落差別の実態に無知であると糾弾された。
全障連(全国障害者解放運動連絡会議)や青い芝グループからは,私たちの闘いを含む現代文明が障害者の排除・差別によって成立していると,鋭く告発された。
「ウーマンリブ」の女性活動家たちからは,自由・平等を目指す左翼運動の中にすら「男権主義」がはびこっていると批判された。
全共闘や新左翼系のグループは,反権力の闘いの最先頭に立っていると思っていた。抑圧・差別と闘っている人々から批判されて初めてその「錯覚」に気づいたのである。私たちは闘いを節目ごとに点検し,次の闘いに備える行為を「総括」と称していた。まさに,全面的で,根底的で,そして自己否定的な「総括」が問われていた。
私は全共闘運動がバリケード解除とともに「衰退」したという見解には反対である。あれから四十年間,全共闘運動を自身で「総括」し,さまざまな分野で活動している人たちを知っている。私は全共闘運動は「自己否定」という契機を得て「深化した」と認識している。
「ベトナム・メーデー」
略