一九六八年の戦争と可能性
アナキズム、ナショナリズム、ファシズムと世界革命戦争
一~五
略
六
亡くなる直前に廣松渉が『朝日新聞』に発表した「東北アジアが歴史の主役に」と題されたアジア主義的な文章が物議をかもしたことは知られている。
廣松は,次のように言う。
「新しい世界観や価値観は結局のところアジアから生まれ,それが世界を席巻することになろう」「単純にアジアの時代だと言うのではない。全世界が一体化している。しかし,歴史には主役もいれば脇役もいる。将来はいざ知らず,近い未来には,東北アジアが主役をつとめざるをえないのではないか。」「東亜共栄圏の思想はかつては右翼の専売特許であった。日本の帝国主義はそのままにして,欧米との対立のみが強調された。だが,今では歴史の舞台が大きく回転している。日中を軸とした東亜の新秩序を! それを前梯にした世界の新秩序を!これが今では,日本資本主義そのものの抜本的な問い直しを含むかたちで,反体制左翼のスローガンになってもよい時期であろう。」(『廣松渉著作集』第十四巻)
廣松はファシズムについて積極的な言及をしていたマルクス主義者といえよう。積極的とは,ファシズムに対する公式左翼的な批判ではなく,ファシズムを内在的に批判しようとする視点である。例えば「全体主義的イデオロギーの陥穽 ファシズムとの思想的対質のために」という文章がある。その冒頭で廣松は次のように問題提起をしている。
「ファシズムの全体主義思想は従前,理論的・思想的次元の問題として真摯に検討されることが少なかったように思われる。けだし「ファシズムは理論的・思想的には取るに足らぬ」という暗黙の了解が支配的である所為であろう。だが,ファシズムは,果たして水準以下的な思想であろうか? 近代合理主義や近代デモクラシーに安住している凡百の“思想”よりも,それは却って思想的水準が高いのではないか?」(『マルクス主義の理路』)。
そして今や「思想としてのファシズムを虚心坦懐に検討し,自らの足許をも見据えつつ真摯に対質すべき局面に際会している」のだと言う。この中で廣松は,ハイデガーやカール・シュミットをはじめとする「第一級の学者・思想家たちも多数ファシズムにアンガージュしている」ことをあげ,「インテリ層がたとえ思想的に錯乱し自己欺瞞に陥ったのであるとしても,そこにはしかるべき思想的自己了解の内在的論理が介在していた筈であって,これの究明を抜きにした単なる“精神分析”ではファシズム論の名に値しえない筈である」といい,思想としてのファシズムの再検討が必要だという。
今日からみれば,廣松のこのファシズム論は明らかに準備不足の感が否めないが,それはともかく廣松はファシズムを近代的個体主義のアンチ・テーゼと捉え,それに対しては肯定的な評価を下している。廣松はまたラインハルト・キューンルの『ナチス左派』(Rheinhard Kuhnl: Die nationalsozialistische Linke 1925.1930.)をふまえ,「ナチ党左派は,最後まで社会主義的志向と政策をもちつづけた。ナチ党左派は,ヴェルサイユ体制の打破を志向したソ連との協力を主張し,王室財産の没収問題に関してはドイツ社民党や共産党との協同を考え,また,必ずしも人種主義や民族主義に凝り固まっておらず,ドイツ・ナショナリズムの帝国主義的政策に対する反対闘争を志向し,被抑圧民族のインター・ナショナルな連帯を主張していたといわれる」と紹介している。「ナチス」という呼称は現在では第三者的呼称として使用されているが,元は敵対者からの蔑称であり,ナチスは自らを「Nationalsozialist(ナツィオナル・ゾチアリスト,ナショナル・ソシアリスト)」,つまり「国民社会主義者(国家社会主義者)」と称していた。ナチスは「党綱領の社会主義的志向を空洞化せしめたヒットラーのヘゲモニーのもとに権力の座についた」(廣松前掲書)が,だからといってヒトラーやナチス主流が社会主義者ではなかったとはいえないとして,わざわざ註に「『我が闘争』ではともあれ「国家主義と社会主義の結合」を強調しており,遡っては,ナチス党綱領を初めて大衆の前に公表・解説したのも彼であるから,「ヒットラーは最初から反社会主義者であった」という説はそのまま肯んじるわけにはいかない」と書いている。
廣松によれば,近代個体主義の批判と超克の立場においてファシズムとマルクスの思想は同じであるという。両者に違いがあるとすれば,ファシズムは“個人”に対する“社会”を実体化するがマルクスはそうではなく,「ファシズムの全体主義は,社会というものが諸個人の代数和ではないということを主張する限りでは正しいとしても,マルクスを援用していえば,社会というものを諸個人の現実的な関わり合いの機能的聯関の総体として把握せず,それを自存的な実体に仕立て上げ」ており,「近代個体主義の社会観が,成員の間主体的 intersubjektiv な関わり合いの「項」を実体化する錯視に陥っているのに対して,ファシズムの全体主義的社会・国家観は,当の聯関の総体を実体化してしまう物象化的錯視に陥っており,まさしくこの点に全体主義イデオロギーの誤謬の根幹がある」(廣松同右)のだった。煩雑を厭わず廣松の言説を紹介したのは,廣松のファシズム批判論が,ファシズムの肯定性の内在的止揚とでもいうような論理構成をとっていることを示唆したかったからだが,これは廣松のファシズムに対する姿勢を見る上で看過出来ないことだと思われる。このようなファシズム批判を,戦前の日本思想に対して展開したものが『〈近代の超克〉論 昭和思想史への一視角』だろう。ここでも廣松は,戦後に流布している戦争期の日本において資本主義批判はタブーであったかのようなイメージがあるが,それは誤りだという。「在野の日本ファシスト諸グループが「資本主義の打倒」を綱領に掲げていたことは措くとしても,陸軍の主流「統制派」や当時のいわゆる「革新官僚」においても,旧来の資本主義に対する一定の批判にもとづいた“革新”が志向・表明されていたのであり,資本主義に対して批判的言辞を吐くことは,それ自体としては決してタブーだったわけではない」といい,戦争期の座談会「近代の超克」をとりあげ,京都学派の思想に対する内在的批判を展開している。廣松がファシズムに対して異例なまでに内在的批判の姿勢をとっているのは,近代的世界観の超克をいう廣松にとってのハイデガー問題があるからかもしれないが,廣松のファシズム批判は,近代(近代個体主義)に対する批判においてはファシズムと同じ戦線に立とうとしているのである。つまり廣松は,戦後の凡百のファシズム批判に対して,新左翼の革命理論の対抗馬となり得ると認識し,ファシズムの思想的オルグを図ったということも出来,「東亜の新秩序」「世界の新秩序」の思想の左翼的奪還をいう廣松の言辞は裏を返せば,その思想的可能性を見抜いており,ファシズムにこそ現代の革命思想の現場があると認識していたことでもあるだろう。