なぜキューバは米国よりも民主的なのか
Why socialist Cuba is more democratic than the U.S -MR Online
https://mronline.org/2026/04/06/why-socialist-cuba-is-more-democratic-than-the-u-s/
要旨
米国の対キューバ敵視政策は,両国が根本的に異なる民主主義モデルを持つことを示している。米国では経済エリートが政治を左右し,選挙は資金力に依存し,形式的な自由の背後に深い不平等が存在する。一方,キューバでは候補者は地域集会で指名され,資金提供は禁止され,憲法制定にも大規模な市民参加が行われるなど,参加型の仕組みが制度化されている。富が政治を支配しない点で,キューバは異なる民主主義の形を示している。
以下全文
トランプ政権によるキューバへの敵対行為の再燃――制裁の強化,政治的圧力,そして露骨なイデオロギー的攻撃を通じて――は,再び根本的な矛盾を露呈させている。
民主主義の世界的モデル」を標榜するある国は,小さな社会主義の島国を依然として根強い脅威として扱い続けている。これは偶然ではない。そこには,より深い意味がある。争点となっているのは,抽象的な「民主主義」ではなく,社会における権力の在り方という,根本的に異なる二つのあり方なのである。
キューバが経済的圧力の激化や,体制を不安定化させようとする組織的な動きに直面している今,一つの単純な疑問が浮かび上がる。もしキューバが本当に「非民主的」であるなら,なぜこれほどまでに絶えず攻撃され,孤立させられ,信用を失わせられなければならないのか。そして,同様に重要なこととして,米国がこれほどまでにキューバを弱体化させることに多大な労力を費やしているという事実は,米国について何を物語っているのだろうか。
答えは単純明快だ。私たちが向き合っているのは,民主主義とその欠如との比較ではなく,二つの対立する民主主義の概念の比較である。一方は資本の力に根ざし,もう一方はそれを超えた政治生活の構築を目指すものである。
議論はここから始めなければならない。民主主義とは決して単なる紙上の制度ではなく,常に現実の社会関係に根ざしている。決定的な問題は単純明快だ。
実際に誰が,どのような条件下で,誰の利益のために統治しているのか。
米国では,形式的な政治的権利は存在するが,それらは極端な不平等が特徴的な社会の中で機能している。比較的少数の経済エリートが経済の主要分野を支配しており,その影響力はそれだけにとどまらない。それは政治的意思決定の場へと直接及んでいる。ギレンズとページによる著名な研究が明らかにしたように,経済エリートの意向が大多数の意向と食い違う場合,政策の結果はエリートの意向に沿う傾向がある。
端的に言えば,大多数は参加するが,決定権はない
制度的枠組みは,この現実をさらに際立たせるだけである。選挙人団制度により,一般投票で敗れた候補者でも大統領の座に就くことが可能となる。高く評価されている二大政党制は,政治活動を二つの勢力に限定しており,この二大勢力は,言葉遣いは異っているが,同じ経済的基盤を擁護している。
これは真の選択ではなく,定められた枠内での変化に過ぎない
そして,決定的な要因となるのが「資金」だ。2020年の米国連邦選挙には約140億ドルの費用がかかった。『シチズンズ・ユナイテッド』判決以降,企業や富裕層は実質的な制限なしに資金を投じることができるようになった。 実際,これがもたらす結果は明白だ。政治的な競争は資金力の競争へと変わる。存在感は資金力にかかっている。存続は資金力にかかっている。成功は資金力にかかっている。
金が誰の声が届くかを決める時,同時に誰が支配するかを決める
ここで,この制度を擁護するために用いられる最も根強い通説,すなわち「誰もが自由に選択できる」という主張について考えてみよう。真剣に検討してみると,この主張は成り立たないことがわかる。
具体的に何を,どのような条件で自由に選べるのか
米国では,何百万人もの人々の日常生活が経済的な不安に左右されている。国民の多くは,わずかな予期せぬ出費さえも容易に賄うことができない。こうしたプレッシャーの下では,仕事や人生の進路を自由に選択できるという考え自体が疑問視されるようになる。
生き延びるために,手に入る仕事なら何でも受け入れざるを得ない労働者は,自由を行使しているのではなく,必要に迫られて行動しているに過ぎない。
職場においても同様の傾向が見られる。「随意雇用」という広く普及している制度により,雇用主はいつでも労働者を解雇することができる。
一方の側が,もう一方の生存を左右するような関係に,真の平等など存在しない。
医療の分野でも状況は同じだ。医療へのアクセスは,雇用状況,収入,そして支払能力にかかっている。何百万人もの人々が治療を先延ばしにしたり,借金を抱えたりしている。
購入しなければならない権利は,権利ではない。それは階級によって左右されるアクセス権に過ぎない。
教育についても同様の理屈が当てはまる。学生ローンは,卒業後も長い間,どのような仕事に就くか,どこに住むか,人生をどう設計するかといった決断に影響を及ぼし続ける。
借金は単に個人に重荷を背負わせるだけでなく,その人の意思決定の自由を静かに制限してしまう。
選挙プロセスでさえ,この構造を反映している。選挙人団は一般投票の結果を覆すことができる一方で,参入障壁となる資金力の問題により,有権者に選択肢が提示されるはるか以前に,候補者がふるい落とされてしまう。
投票が行われる頃には,候補の選択肢はすでに絞り込まれている。
そこから浮かび上がるのは,無制限の自由を保障するシステムではなく,選択が経済力によって構造化され,選別され,制約されるシステムである。民主主義は形式のレベルにとどまり,その実質は別の場所で形作られている。
まさにこの点において,社会主義キューバは根本的に異なるモデルを提示している。
キューバでは,選挙プロセスは意図的に「金」の役割を排除するように設計されている。候補者は,政党や資金提供者,あるいはメディアキャンペーンを通じてではなく,地域集会において指名される。
政治は市場として扱われるものではなく,候補者も投資を争う商品ではない。
このアプローチは,具体的な制度的実践によって裏付けられている。例えば,2019年憲法は,数百万人の市民が参加し,数万回に及ぶ会合が行われた全国的な協議を経て制定された。改正案は議論され,修正された上で,ようやく採択されたのである。
この意味において,法律は上から押し付けられるものではなく,参加を通じて形作られるものである。
労働組合,地域委員会,女性団体,学生団体といった大衆組織は,組織的な形で社会生活に組み込まれている。
参加は一時的なものではなく,システムそのものに組み込まれている。
この2つのシステムの違いは些細なものではない。それは構造的なものである。
米国では,莫大な資金が政治的な存在感を左右している。
キューバでは,候補者への民間からの資金提供は一切認められていない。
米国では,候補者は支援者ネットワークや政党組織に依存している。
キューバでは,すべての候補者が平等な条件の下で立候補する。
これらは同じモデル内のバリエーションではない。根本的に異なる原理を反映したものだ。
投票行動の傾向も,この対照を浮き彫りにしている。キューバの選挙では常に高い投票率が記録されており,国民がこのプロセスを意義あるものと捉えていることを示唆している。一方,米国では投票率が依然として著しく低く,政治参加の影響力は限定的であるという認識が広く浸透していることを反映している。
自分の役割が重要だと感じれば,人は積極的に関わる。重要ではないと感じれば,距離を置く。
より根本的には,その違いは各体制の経済的基盤にある。米国では,私有財産制によって,経済力と政治的影響力が密接に結びついた状態が維持されている。
キューバでは,社会所有制がその関係を変えている。
富がもはや政治生活を支配しなくなると,政治そのものが異なる様相を帯び始める。
フィデル・カストロは,簡潔でありながら核心を突いた問いを投げかけた。「金持ちがすべてを決めるような民主主義とは,いったい何なのか」
この問いに対し,米国モデルを擁護する人々は依然として答えを出せていない。
批評家たちは,キューバには複数の対立する政党が存在しないことをしばしば指摘する。しかし,たとえ多くの政党が存在しても,それらがすべて同じ経済的制約の下で活動している限り,自動的に民主主義が生まれるわけではない。
すべての選択肢が同じ方向を指していたら,選択肢が増えたからといって自由が増えるわけではない。
キューバの体制はこの枠組みを否定し,その代わりに組織的な参加を通じた代表制を重視している。
これは欠陥ではなく,政治生活を構築する別の方法である。
日常の経験に目を向けると,その対比はより鮮明になる。米国では,政治への関与はしばしば,メディアの報道や選挙サイクルに左右される,定期的な投票に限定されがちである。
キューバでは,市民の参加は地域集会,職場,そして各種団体にまで広がっている。
観客を生み出すシステムと,参加者を生み出そうとするシステム
これらすべては,極めて異なる外部環境の下で起こっている。キューバは数十年にわたる経済封鎖と絶え間ない圧力に直面してきた。それにもかかわらず,同国は,金銭が公的生活を支配しない政治体制を維持し続けている。
対照的に,米国では,政治プロセスを維持するために,民間資金の継続的な流入に依存している。
あるシステムは資本の役割を制限しようと苦心している。もう一方のシステムは,資本なしでは機能しない。
結論は自ずと導かれる。米国は,民主主義の最高形態を体現しているわけではない。米国が体現しているのは,形式的な平等と実質的な不平等が共存する,参加が支配権につながらない,そして経済力が政治活動の限界を決定づけるという体制である。
キューバは,困難を抱えながらも,別の方向性を示している。同国は,富の影響力を制限し,参加の機会を広げ,意思決定を社会的ニーズに即したものにするような形で,政治体制を構築することが可能であることを示している。
金銭の力が人々の声よりも優先されるような制度は,いかなる意味においても民主的とは言い難い。政治的な選択を,あらかじめ決められた選択肢の中から選ぶことに限定してしまうようなシステムは,自由ではなく,管理された同意に過ぎない。
真の民主主義は,資本が決定権を失う地点から始まる。まさにそこが,社会主義キューバが――圧力の下で,矛盾を抱えつつも,実践の中で――越えようとしてきた境界線である。
筆者のニコス・モッタスは,『In Defense of Communism』の編集長。
【翻訳チェック 田中靖宏】
AALAニューズ212号 2026.4.20