学問の目的は、自然と社会と自分自身を主体的に変革するために必要な知識と力を得ることである
二〇一一年度神戸芸術工科大学「組版講義」第一講

前田年昭(ビジュアルデザイン学科教員)



これは、二〇一一年六月一日、この年度の神戸芸術工科大学で担当した組版講義をはじめるにあたって「情報デザイン論」(二年生)の冒頭に述べた“学問とは何か”という講義の内容をまとめ直したものである。
 この講義のあと、“世界の用字系と文字の排列方向”というテーマで、新型核爆弾による第三次世界大戦の三七年後の世界を描いた大友克洋の傑作漫画『AKIRA』の日本語原作と英文版を比較して学んだ。見開きの右から左へ進む日本語版に対し、英文版は左から右へ進む。文字の排列方向についての先行研究には宮崎市定「歴史的地域と文字の排列法」(『アジア史研究 第二』一九五九)がある。宮崎はここで「どちらでもよい事が、どちらかに決定されているという事実の持つ意義」を強調している。
 ある哲学者が指摘したように「もっとも単純な、もっとも普遍な、もっとも根本的な、もっとも大衆的な、もっとも日常的な、何十億回となく繰り返される関係」は変革の前提たる現状分析の土台である。
 また、翌六月二日の「編集・表現論」(三年生)の冒頭でもこの学問論を述べた後、“書法から活字へ”というテーマで文字デザインが歴史と社会、技法と書体ごとにそれぞれ特徴を持つことを学んだ。


 私の担当講義を始めるにあたり、学問とは何かについての私のかんがえを自己紹介を兼ねて話しておきたいとおもいます。
 私は四〇年前に高校を中途退学してから――途中何年かの自営業をはさんで――ずっとフリーターをやってきました。数年前にドイツへ行く機会があったのですが、その時に見聞したことは、私が高校を中退した動機はけっして間違っていなかったと再確認するに充分なことでした。

 ハイデルベルクはドイツの学園都市です。ここ神戸の学園都市に神戸芸術工科大学があるように、ハイデルベルクもまたドイツで最も古いルプレヒト・カール大学ハイデルベルク(通称ハイデルベルク大学)をはじめ、ハイデルベルク教育専門大学など大学や研究機関が多く、伝統ある街です。街を歩くと素敵な古本屋さんもあります。街を象徴する川、橋、城がとても美しく印象的でした。
 ここに二〇世紀初めまで数百年にわたって学生牢というものがあったのです。自由意志によって学生組合に加入している学生は、たとえ国家の法律に反することがあっても、警察に逮捕されることも国家の裁判に服することもなかったのです。大学のなかで刑に服していたからです。学生が、自分は学生組合に属していると告げれば、警官は交番にもどって報告書に書くだけだったと、マーク・トウェイン(一八三五―一九一〇)は体験記「ヨーロッパ徒歩の旅」〔補注〕に記しています。
 つまり、大学の自治とはこのような“二重権力”として、すなわち、いわば「法外」の別の国家として培われてきたわけです。真理をめざす批判的な行為、学問の研究や表現の自由は、このように時の政府や国家権力と対峙する自分たちの権力を持つことによって保障されてきたのです。

 私が学問のもつ反権力性、党派性をはじめて認識したのは四〇年前です。当時、水俣病が社会問題になっていました。熊本にあるチッソ水俣工場が垂れ流したメチル水銀による公害病です。ところが当時の大学や病院、国や行政は、工場排水が原因だと認めようとせず、有機水銀原因説を否定しつづけました。ちょうどこんどの東京電力福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染の事実を専門家が「ただちに健康に影響を及ぼすものではない」などと否定しているのと同じ構図です。こんども当時とまったく同じように「海で薄められるから大丈夫」などとうそぶく専門家の姿を見ると、この社会は残念ながら何ひとつ進歩などしていないとおもいます。
 ここには東大を頂点とする専門家の根深い支配体制があります。彼らは実際に苦難を負っている人びとの立場に立つのではなく、資本と国家のしもべでしかないのです。
 私が小学生のころ暮らした尼崎は四日市とならぶ公害都市でした。近くの神崎川は真っ黒でくさく、ガスがぷくぷく噴き出ていましたが、当時つくられた小学校の校歌は「かがやく朝の学びやに太陽のような夢がある」「みどりの風の吹く窓にはずんだ若い声がある」というもので、私にこの社会の嘘と不正をかんがえさせるきっかけになりました。
 中学に進学したころ、全国の大学や高校で全共闘運動が始まりました。東大を頂点とする、資本と国家のしもべとなった学問のあり方を問い直す闘いと運動でした。ベトナム戦争でベトナムの人びとがナパーム爆弾で焼き殺されているとき、侵略したアメリカの爆撃機は日本にある米軍基地から飛び立っていく。私たちは第三者でありえようか。被害者でなければ加害者ではないのか。学問は誰のため何のためのものか。付言すれば、これは他者を断罪するための倫理などではなく、自省と変革のための視点です。たとえば、己を何一つ罪のない被害者として措定するのではなく、自らの加害性を追求し自覚するためにも自身が東電社員だったらどうなのかと考えてみることです。なぜなら、自己変革を伴わない社会変革など百害あって一利なし、だからです。
 四〇年前も今も、私たちが問いつづけているのは、資本と国家による加害に加担しつづける東大御用学問体制です。四〇年前の全共闘運動は、東大入試を一年間中止させたほど東大御用学問体制を批判し、揺るがしました。私も高校で全共闘運動を闘いました。私は、歴史学の研究者になりたかったのですが、御用学問の腐敗の深さを知るにつけ、在野で生きようとかんがえ、中途退学し、農業や土木建築、港湾荷役、製造業の下請け、日雇いの仕事をやりました。ここ三〇年ほどは編集、組版、校正などを中心に本づくりの仕事に就き、現在にいたっています。

 私は学生の本分は学生運動だとかんがえています。学生運動といえば、デモや集会をやったりビラを配ったりすることが浮かぶかもしれませんが、それはほんの一部でしかありません。学生運動でもっとも大切なことは学問をすることだと私はかんがえています。資本と国家のしもべではなく、実際に苦難を負っている人びとのための科学、医学、技術を学び、打ち立てること、そのために、現在の専門家による御用学問を批判することです。経済学ではなく経済学批判を、デザイン教育ではなくデザイン教育批判をやることです。

 学問とは何か。私はまだかんがえつづけている途中ですが、今のところ次のようにかんがえています。
 学問の目的は、自然と社会と自分自身を主体的に変革するために必要な知識と力を得ることにある、と。人間が自然を改造し(自然科学と生産闘争)、新しい人びとが旧い人びとを批判して社会を改造し(社会科学と階級闘争)、そうして自分自身の生き方を変えていく(人文科学と思想闘争)、そのためには先人たちが残した知識を学ぶことも必要ですし、それだけでなく、その知識を生かす力も必要です。力とは何か。ものを見る目、感じる心です。ものを見る目、感じる心がなければ、いくら書物を読んでも役立てることはできません。
 人間は直接経験だけでなく、間接経験から学ぶことができます。東京電力福島第一原子力発電所の事故で強制的に避難を余儀なくされて仕事も生活も奪われ、苦難を負わされた人びとのことを心におもい、目を世界に向けて学ぶことが重要だとおもいます。
 デザインでいえば、技術に使われるのではなく、人間が技術を使うということです。コンピュータは人間の感覚や作業の延長として、見たり測ったり数えたり、さまざまなシミュレーションをやる道具です。ですがたとえば、なぜ、そこにその文字をそのサイズで配置するのかをかんがえることなく、ソフトウェアの操作方法だけを覚え込んでもよいものをこしらえることはできません。
 東日本大震災で地震と津波を体験した子供たちは風呂もプールも怖がるようになったといいます。子供たちの安心と安全を取り戻すような街と生活のデザインが今こそ求められています。また、原子力発電所の過酷な被曝労働を支えている下請けや日雇いの労働者の防護服がなぜあのような暑苦しく非人間的なものなのか。デザインは、いったい誰のため何のためのものかが問われているのだとおもいます。
 ここで大切なことが“すべては疑いうる”という批判精神です。意見やかんがえがちがうからといってレッテル貼りをするのはよくないことですが、ちがいを追究すると「対立」になるからといって討論を避けたり、なあなあにすませたりするのは、あの意義深い全共闘運動の「負の遺産」だとおもいます。政治党派が袂を分かつのはありでしょうが、学術団体や大衆組織まで分裂させてしまって、発展の契機としての相互批判と対話の場を狭めたことはよくないことでした。今こそ、広く深く討論をする習慣を取り戻す必要があるとおもいます。
 “すべては疑いうる”という批判精神はすべてを疑えというニヒリズムやシニシズムとは違います。私の講義に対しても同様です。聴いたことをそのまま覚えるのではなく、“すべては疑いうる”という批判精神をもって聴いていただきたいとおもいます。

〔補注〕
A Tramp Abroad, 1880. 松本昇・行方均訳『ヨーロッパ放浪記 下(マーク・トウェイン・コレクション8B)』一九九六年、彩流社。当該の記述は二六二―二六九頁「補遺C 大学の牢獄」に出てくる。

【参考文献】
前田年昭「装丁/ブックデザイン/書物はだれのものか」〔『ユリイカ』二〇〇三年九月号(特集・ブックデザイン批判)青土社〕
前田年昭「組版の哲学を考える〜規範的ルール観からの解放を!〜」〔二〇〇三年、『Windows DTP PRESS』vol.8、技術評論社〕
前田年昭「技術が〈人間と労働〉にもたらしたものへの問いかけ〜歴史のなかの知恵蔵裁判〜」〔鈴木一誌+知恵蔵裁判を読む会 編『知恵蔵裁判全記録』二〇〇一年、太田出版〕


(二〇一一年六月二日)


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※ 20111101 若干改訂。20111225 若干改訂。20130826 書誌リンク追加。





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